風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

寓話がTwitterで利用されるのはなぜか

 ツイッター上で「通りすがりに女子高生が正論を言った」ツイートは嘘っぱちだとするものが見かけられる。まあ大元は知らないが、そういう話が多くなってきたのは確かだ。
 自分の主張をわかりやすくするためにそういったシチュエーション、あるいは例えや寓話を使うことが流行りで、「これはこういうことが起きているのと一緒のことです」とまとめあげれば自分の主張を拡散する手助けになる。
 しかしそのような論法は本来あまりにも高度なものなのではないか。詭弁や論理の間違い、同じではないものを同一と見なす初歩的なミスを犯していたときには、どんな主張の説得力でも無に帰せられる。なのにそのようなハイリスクな論法を使いたがる「ツイッタラー」がいるのはなぜだろうか。そしてそれが大きく出回るのはどうしてだろうか。
 
 昔話・寓話は実在しえない話であるが、テーマには教育的な性格を持っている。教訓である。「三匹のこぶた」なら「一番頑丈だったレンガの家は建てるのが大変だ。でも藁や木で作ったほかのこぶたたちの家は潰れてしまったが、レンガは潰れなかった。だから努力はどんなに大変でも大切だ」とか、「北風と太陽」であれば「北風のように厳しい態度で人に接するより太陽のように暖かな気持ちで人に接せば相手も心を開いてくれる」とか。
 教訓を持つ話というのは、常にそれを作ったり演出した人の思想性を内包する。「三匹のこぶた」を作った人が努力家であるかどうかは知り得ないが、努力を大切にする人であったかもしれないというのはここでわかる。そして、いま先ほど取り上げたツイッターの人たちが目指しているのもこの教訓と思想に基づいた話ぶりと見える。「この人はこんなことを言っているからこういうことを伝えたくて、こういう人だってことなんだな」と一発で認識してもらえるので、わーわー喋るよりよっぽど効果的なのだ。
 しかし寓話とツイッター上での例えで違うのは、ツイッター上では事実を下敷きにして寓話や例えと重ね合わせる点だ。寓話は実在しえないから一般化でき、そうして思想性を帯びることができたが、現実は実在するうえ寓話のような簡単な構造ではできていないので、事実を寓話化した際には多面的に齟齬が起きうるのである。
 
 ところで、教訓を帯びた話も歴史を進むうえで風化したり、都合が悪ければ排除されたりするし、また教訓を帯びない話が教訓化することもある。後者の一例として、「浦島太郎」が教訓化したのは明治時代に結末が切られて「嘘はいけない」と教訓化されたからである。この話から見えるのは、寓話は後付けの教訓との相性がとてもいいということだ。ちょっと切ったり足したりするだけで教訓に沿う便利なストーリーである。
 そもそも寓話は虚構の世界であるから、現実の側から否定できない。しかし教訓は現実の側から織り込まれているもののはずなのに、無批判のまま人々に受け入れられる。まして後付けの教訓はどうだろうか。……だから、批判されず、それどころか「的を射ている」と賞賛されるまである例えで主張をぼかしていく。
 最初に取り上げた批判的なツイートは、そうした実情を撃ち抜いたものだったと思う。虚構を弄して現実の論理のまま仮想の話に逃げる安全手段として例えや寓話が使われているのであれば、「この人はそういう論理を使いこなせる人なのだろうか」と疑ってみても、僕は損はないと思う。
 わかりやすさに逃げてはいけない。わかりやすさの方へ逃げられてもダメだ。この言葉は切々と話さねば伝わらない。

生と死

 先日、毎日その日その日に自殺した人とそのプロフィールを紹介する小史的なアカウントを Twitter でフォローした。ひとりひとり、死因も動機もその後もまるっきり違う。死は、べつに自分で決めなくても勝手に決められるかもしれないこの俗世において、なぜ彼らはその方法を自死としたか。
 答えはその中を見つめれば出てくるもので、例えば、大阪のある小学生のように、小学校の統廃合という思春期に敏感なテーマが重なったことで自身の思想性を強烈に訴えたり、ある局のアナウンサーのように生きる苦しみに耐えられず死ぬことを決めたりする人もいる。これは間違いなく、生きることが出来たなら、いや「善く」生きることができる状態だったならば生きていけたのかもしれない。でも実際はそうできない――この苦しみを誰にも伝えられないから、生きることへの熱情と死ぬことへの希望に傾斜する、と思う。これが実際死に直面したときにどう思うかは、なんというか、その時にしかわからない。僕も小さなころはとてもいじめられて大変だったしそういうことも考えたけど、先のような人々の抱えた希死念慮とそれって同じだったのかなんて、わからない。
 この世界には理想と現実があって、いつの日もその狭間に苦しむ。疲れてしまってもう涙も随分流しちゃいなかった。むげにしてしまった人間関係(理想が高すぎたのだと思う)、心にもないことをしてしまったときの心痛を誰も拭っちゃくれないし、そのくせ、そんな話が多いもんだから、これは単に対人コミュニケーションが下手くそなだけなのかな、とも思ってしまう。実は中学時代の同級生とはほぼ疎遠である。卒業アルバムに書かれたメッセージもそう読む機会もない。こうして振り返れば、その「振り返り」の機会さえ僕は捨ててきたのだと思うし、そうすることで自分の精神性を維持してきたはずだ。振り返ることは、過去の自分の反省を「善く」生きるためにフィードバックするためのシステムであり、そんなに「善く」生きようなどと思ってもいなかったということだったろう。
 だから暗い自室の中には、思い出はあっても、それを振り返ることもない(もし振り返るときが来たなら、「自死」を選ぶときだろう)。と言いながらも一度や二度と言わず結構な頻度で過去を振り返りはしたが、割と死にたくなった。だからこの区切りも記憶を断ち切るためのシステムのひとつとして使おうと思う。「卒業式までは死にません」じゃないけど。まあ、僕は最近小さいころの記憶が抜け落ちつつあって、最近は中学一年生の記憶までも侵されてしまった。結局忘れてしまうものだろうが、間違いなく健忘の進行が早く、長期記憶が持たない。その点「今」の密度が濃いので、どうせ振り返らないなら捨てるべき記憶もあるのだと、僕は思う。
 井伏鱒二漢詩の中に「サヨナラだけが人生だ」という名訳を見出した。僕はそこに、他者との別れだけでなく、知っている自分を殺し、知らない自分の可能性の中から一つを選んでそのほかを捨てる、それもまた別れなのだと受け入れる姿勢も認めたい。それは「善く」生きるためじゃなく、ただ死なないためだけにする儀礼だと思いながら。

無力感

 この頃の耳たぶがちぎれそうなほどの寒さに自転車を漕いで最寄駅へ行くまでの十数分に、僕は物思いをめぐらしながら無力感に打ちひしがれている。そういうときは朝の静寂がとても好ましい、悟りに入ったような錯覚を起こせる。もうずっと前から脱力感を感じているけれど、朝の突発的かつ習慣的なえづきとともに学校に行くまでにはすっかりその日のことで頭がいっぱいになり、何を考えて悩んでいたかも忘れてしまう。あるいは休日なら、そうなる前に radiko をつけて朝を掻き消す。なるべく心を賑わせて現実逃避して、それから一日のやるべきことを淡々とこなして夜を使い果たしていく。
 
 不思議なことに、悩んでいたことは夜になると結構思い出せる。おとといは、フランス人の約8割が陰謀論を信じているらしい、というニュースを見て、どうしたって人の考えは他人の一押しじゃ変わんないよな、という無力感にさいなまれたし、その数日前は「世の中は結局多数派が見ているものに合わせながら平均値をとっているから、公平さが担保されないな」と思ってどうしようもねえなと吐き捨てたりして、結局こういうことを何年も続けているから偏屈な人間になってしまったんだなという自覚はある。結局は、自分も考慮のうちに入れては軽蔑することを繰り返したあの小さくて脆い複雑怪奇でどうしようもないコミュニティが、自分の中にどうしてもあって、あるいは見たいものやなりたいものだけ見続けて、袋小路で叫んでるだけなんじゃないかといつでも思っている。昔から泣き虫だったので、余計に無力感についてのアンテナが強い。
 
 そのうち本も全く読まなくなったりして、無学のままで思い込み続けて、何もできないとのたまう機械になってしまうようなことだけは避けたい。常識を思考システムに代入するだけならいくら論理関係の分からないコンピューターにも出来る(その常識の意味をコンピューターにも理解できるように噛み砕いた場合に限るが)。しかし現実は、自分がもぬけの殻であることを自分で気づかないように心の中をにぎやかにするような、例えるなら深夜営業の駅前の個人経営の居酒屋が朝までドンチャン騒ぎ、って感じの心情を思い浮かべるだけだったりする。それでも朝になればまた店は閉まり、あんなにいた客はまためいめいの仕事なんかに出かけて行って誰もいない――このふいに訪れる静寂こそが僕にはとても恐ろしい。
 
 そんな時に思い出せるいくつかの思い出と、いくらかの苦みと、ほんの少しの音楽が傍にあれば違うのかなと思ったことがある。しかしこのセットが役に立つのは大抵は上り調子の時だけだ。思い出でさえもだいたいは、ほんの些細な自分の戸惑いや取り違えで強烈な苦みに変わる。他には本や旅行も試した。一時的にはじわりといい雰囲気が漂うが、あくまで一時的な幻想であって、ぶり返す現実への処方箋にはなり得ない。そんな時にはじめて、世の中は上手な現実逃避によって回っているんだなあと気づいた。人の能力や心理は結局なんらかのことで失われる可能性があって、そのすべてを差し引いたらだれだって空集合なのに、抜け殻になること、もしくはそうなることを恐れないための心の機微を僕は学んでいないのだなと痛感した。
 思い出や苦み、能力や心理といったものはすべて何らかの不可抗力により失われる可能性がある。それは、他力の関与度の高低はあれど、「自分」とは与えられたものだからだ。自分で何かを決めたと思っていても、実は与えられておきながらそれに無意識であったとき、周囲の影響が拭いきれない。
 
 僕はあらゆる所属や心持ち、能力や友好関係からほんのひとときだけ放たれて、洟垂れのままで、見知らぬ街角で見知らぬ誰かと朝まで喋りたい。そうして朝になったら静寂に身を包む。結局あのひとも空集合に詰め込まれた経験と成果を持ち合わせた方だったんだなと思うそのひとときだけ、無力感を少し和らげられると思う。まあ、別に見知らぬ誰かでなくてもいい。「所属から離れた状態で」見知らぬ誰かとして、僕に叫んでほしいと思う。こっちも同じ、いやそれ以上の声量ないし熱量で叫び返すつもりでいる。だってあなたも、所属から離れたら僕にとっては空集合とほとんど同じ意味になるし、「あなた」というデータや心の自覚を失って空集合になるかもしれないから、こちらは概念として見知らぬあなたと喋りたい。
 そうして不安を叫びあって声と声でぶつかる、文と文でぶつかることで、身の回りの納得いかない不可抗力にも違った意味を持たせられる気がする。無力感はあるけど、べつに手をこまねいているわけではなくて、また新しい知見を開けたんだ、と思うことになるだろう。ゆるやかな繋がりからほどかれて、強固な対話だけが後々日常の違和感を消し去っていく。
 ……といったような、一方で熱く見え一方で穿って見えるこの考え方は、子供のころにいろいろ虐められたり暴力受けたりして、僕は集団の中のひとりではない、一対一だから安心して話せるんだ、という閉じこもった思想が形成されたころ同時に出来たものだ。この考え方を別の言葉で表せば「この目で見たものしか信じられない」ともいう。

報道、表現、他者

 今年の最後の最後に、メディアの人物が肝に銘じてはならない反例が出来てしまった。朝日新聞の記者へのインタビュー記事。端的に言えばいくらでも言いようはあろうが、それをしてしまうと同じ穴の狢であり、また反例を踏まえていないとみなされても仕方がない。インタビュー記事*1からいくらか文脈を乱さない程度に抜粋したい。
 
『(安倍政権の「人づくり革命」などのフレーズを例に挙げ)欺瞞を正面から突破するのは難しい。だから「なんかだ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとかして言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです』
『あらゆることを損得の基軸に落とし込もうとする安倍政治(注:ここまでで、安倍政権が提唱する『一億総活躍社会』について弱者を社会に包み込むのではなく動員する考えだど批判しての流れ)が、私は嫌い、というか、なんか悔しい。だからといって、言葉を強めて批判的な記事を書けば、読者に届くわけでもない』
 
 ここまでの流れで、「弱者を包むのではなく動員する安倍政治は醜い」という文脈を持ち、またもっと前では「でも私も堅い記事を書いていたけれどそれじゃ書き手の温度が伝わらない」という話もしていて、それを踏まえても妥当な展開なのか疑問符が付く。前者では「欺瞞を正面から突破するのは難しい」と書くが、その欺瞞であればそれについて事実をねちっこくねちっこく重ねあげ、かといってもちろんけっして論を作らず根拠に基づいて文にすることが記者の仕事で、その先はインターネットの普及で市民でも高い品質で出来ることだろう――あくまで「出来る」だけであり、実際にそのようなことが「なされている」とは若干思い難い――と思うし、逆にそのように回り込むことを使命にして感情をベースに話をするのは、彼女の安倍政権への批判や、また安倍政権を支持もしくは拒絶する一部の両極層の過激な主張と結局変わらないのではないかと思う。回りくどすぎるがゆえに話に隙がある。
 それと後者は、「弱者を社会に包み込む」ことについては定義を記して手厚く表現しているけど、じゃあ「動員」って何ですかというと、実は具体的な定義は文章から伝わってこない。一般常識と言われれば確かにそうなのだろうけど、もう「安倍政権」という現代史の中でも最新、細部の場所から見つめる際には、やはり「包摂」との対比としてわかりやすく言葉にするべきで、そういった細かい配慮の文体ではないのだなというのがわかる。
 なにより日刊ゲンダイによれば(ちなみに僕は朝日新聞の読者ではない)、高橋氏は『<『レッテル貼りだ』なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。堂々と貼りに行きましょう>とあおり、<『安倍政権は「こわい」』>と言い切る』。文中で比喩であっても煽っては台無し。それこそ日馬富士が後輩をマナーが悪かったからと言って殴ってしまったからあんな一大事になった、それと同じことだ。この指摘はトーンポリッシングなどではない、記者としての仕事を放棄しているからこその指摘なのだ。
 結局、彼女の文体は、怒りや呆れといった感情的――記事の中では『身体的』とか使われていた――な表現を用いようとするがあまり、本当に論を提示すべき相手についての冷静な分析が妨げられる恐れがある。本来衝突すべき怒りが、あろうことかその表現のまずさで、論理のまずさで、一切聞き入れられるはずもない。つまり、そのようなものは「レッテル貼りだ」「こわい」の一言で相手が聞き入れなければ(それももっともなことだと思ってしまいそうになる)、一瞬で壊れる貧弱な論だ。
 
 沖縄の問題についても、生活保護の問題についても、表現それ自体はとても巧みで悪く言えば奇も衒える人が、感情に訴えようとする。それはある程度までは確かに有効で、とくにSNS上では感情を誘導し論を通じて納得させる二つのプロセスが有効であれば絶対的な論旨拡散手段と言えよう。だが感情を誘導させることそれ自体が邪悪なもので、論旨に必要のないようなものだったらどうだろう。
 例になるかどうかは分からないが。街宣車が日本国旗を掲げて正月の京都を爆走しているのを見た数年前の僕は強烈に困惑した。街宣車は保守的な主張をするために走っているのに、それについて過激な主張手段や、日本に対しての歪んだ愛情*2を含むから逆に納得されづらい。歓迎できない。
 沖縄の問題について言えば、これは安倍政権よりも前の政権から持続しているテーマであり、だから彼らにとって言えば「日本国政府在日米軍の対応」に怒ることであり、それについての主張如何や僕の意見はともかく、そういうことにならないといけないだろうと思う。感情を絶対に排除できないことは分かっている。そこにある市民感情は島の世論形成や文化に大きな影響をもたらしているからだ。しかしながら、その感情を整理して伝えるのであれば感情の表現は「島民の発言」に収まるはずなのに、ミクロとマクロを取り違えて、つい話を大きくしてしまいがちである。一方でマクロ的に「日本国全体の防衛に必要だ」と言い過ぎて感情を無視するのもいかんせん良くない。これについては、「森を見て木を見ず」だろう。全体のために一部の社会が基礎ごと取り換えられるべきなのかということを感情抜きでは語れない。
 
 生活保護の問題についても、やはり「生活保護の不正受給は悪だ」と全体視するその裏に「実はそのパーセンテージは少なくて、ほんとに苦しい人が結構いる」という事実もまた裏返しにある。かといってじゃあ生活保護受給者が開き直るべきなのかと言えばそれはまた違っていて、社会がそのような人を包摂するためにもサポートを強化し受給者はそのサポートの下しっかりと立ち直っていく必要がある、と踏まえるのが自然だと考える。でも不正受給が際立つからといって「なめんなジャンパー」を作ってみたり、逆にサポートを受けてるのに、という人もいる。両者に交錯すべき怒りは確かに存在するのに、結局その批判は感情に基づいたもので何の意味もなさずに結局直接的に当事者間でしっかりとした対話が行われることもなく、怒りは怒りのまままた膨らんでいく。
 
 ときどき、話をする気があるのだろうかというような他者に出会う。どれだけ「やんのかコノヤロー」と言って論を突き付けても、「いやこれは違うでしょう、地に足付けて話しましょうよ」と言いながら他方では感情への誘導に余念がない。そんなことをしてるくらいなら、相手の発言を過不足なくポイントにまとめ上げ、その一つ一つそれごとに話を突き合わせて考えていく。討論からツイッター上の会話に至るまで、そのスピードは違えどこの過程が重要になってくる(ただし討論する人の頭の回転速度は速いけど結構さっきの例みたいな人もいる)。その時に「身体的な表現」を持ち込むと、本来思考プロセスには絶対に入れ込むべきでないものが混じる、つまり不純な論旨が出来上がる。不純だから、脆い。
 例の女性記者に話を戻すと、彼女の執筆動機は「安倍政権が悔しい」からと読むことができる。個人的な感情なら大いに結構だが、思考プロセスにそれが入り込むとかえって本当に政権に問題があったとしてもかえって見抜くこともできないし、誤認する可能性さえある。話をする気があるのだろうか。同じようなことを、漫才に仮託して結局回りくどい手段を取ったけど一ミリも笑えなかった(注:主観)ウーマンラッシュアワーの村本氏にも思ってしまった。「否定のための否定」をするつもりではないので簡潔に言うと、彼らは思考プロセスに使命みたいなものが入ってるもんだから、話をいくら聞いても同じにしか聞こえない。「こうしなくてはいけないんです、こうしたいんです!」の先がない、ある意味『こわい』身体的な表現だ。使命で感情に基づき事実を淡々と構築しても、使命と感情が先に来ている分、話のトーンや言葉の選択にそれらが現れやすいので、白けてしまうのだ。
 
ブログ変更にあたって追記(2018/03/30)
 一部文章を削除・表現の変更を行いました

*1:日刊ゲンダイ 『朝日新聞高橋純子氏 「安倍政権の気持ち悪さを伝えたい」 2017年12月25日付

*2:というか、少なくとも正月の京都の賑わいと静寂の中を街宣車が大手を上げて通行するのは、僕は真にそういった愛を持ち合わせてはいないのではないかと思う

期待と失望

 期待は人が抗うことのできない欲望であり、また人を傷つけうる暴力でもある。ときに追い風になり、ときに凶器にもなる。また時に期待しても無駄だと言って突き放すというか突き放せる人と、そうはいっても突き放せない人は、本当の失望なんてものもまた存在しない――本当の期待が存在しないように――と知っているかどうかの違いなのだ、とも思う。
 だから、毎年タイガースの優勝を応援したり、村上春樹ノーベル文学賞受賞を夢見たり、そういう小さくて大きな「期待」を心の中に誰でも持ちうるのだ。「決して何にも期待しない」という人でさえ、当然のような社会の仕組み、物や人の動きから完全に独立していないという点で、無意識に何かに期待している。スマートフォンが起動しなくなったら「何てことだ!」と思うのは、「当然のように起動してくれるだろう」という、厳しめに言えば慢心の中で生きていたからではないか、と言わざるを得ないし、そういうところで気づかされる期待はやはり誰からも切り離せないものだ。
 
 それでも、期待から完全に独立したくなる感情=失望を持ち合わせうるのは、「人の期待の重圧に押しつぶされたとき」と「重い期待外れを味わったとき」である。
 期待に押しつぶされそうになると、人は逃げる。正しい判断だ。稀にその重圧を跳ね返す強靭な精神力を持つ人もいるが、それはそういう訓練を受けてきた人々だからであり、たとえばそういったことをしていない僕のような人物が何か期待を受けたとすれば、確実に押しつぶされていくだろう。だから人は逃げる。
 すると逃げたあと、その巨大な「期待の車輪」は、転がしていたはずの期待していた人に跳ね返る。先に述べた「逃げるという判断」が正しい以上、これはある意味仕方のないことで、期待するとはこうしたリスクを覚悟してまでリターンを取ることなのだ。
 しかし、いつしか当然になってリスクを考えなくなったり、それに鈍感になる――それは何度も裏切られたから――と、「期待を無いものとして日常を過ごすこと」が彼らの真実となる。それは二度と傷つかないための自己防衛であり、シェルターであり、順応行動である。最初こそ昔を思い出して辛くなることもあれど、ちゃんと慣れてくる。そういう風に人間はできている。
 それでさえ「この失望は破られない」という期待によって構成されているとも知らずに、何事もないように過ごしている。心を動かす何かはないのだと思っている。この誤解を、僕は「本当の失望など存在しない」と見なしている。
 
 本当に失望したとき何か別の物に期待を寄せるということは、やはり宗教的なものに終着する。平安時代の民衆は極楽浄土を求めるし、それなりに出家もする。ヨーロッパにキリスト教が、中東地域を中心にイスラム教が根付く。成立の起源はともかく、いま現在に絞って状況を見ると、宗教的事物と期待は密接に関係しているとわかる。
 何か信じるもの一つあればいいのだという、非常に脆いが強力な期待。この考えを先のように表現するならば、「本当の期待もまた存在しない」ということなのだ。
 本当の期待も失望も存在しないと気づくことで、初めて自分の足で立つ脚力を得ることができる。信じることで生きていけることは否定しないが、信じるだけでは生きてはいけない。「神聖な一つの色」ではなく、「信じて作り出した自分と誰かのいくつかの色」を使って人生は描き出されるのだ。
 実は、自立と信念のバランスを自分でわかったうえで、他人に期待し寄り掛からなければそんなことは出来ない。これは否定的なことではない。人は完全にわかり合えないので無理な話だと思ってもらえればいいが、期待の重さを誰と、もしくは何人で分け合えるだろう、と考えられる。期待や失望の質量は軽くはならないが、衝突し合ってその期待の正体を徐々に削り出して、生きやすくすることができる。
 気を付けなければいけないのは、その期待が集団内に反響することだ。「抗うことのできない欲望であり人を傷つけうる暴力」は「失望」という概念を理解しえないので、外に露出された際、思い通りにいかない現状に暴発しかねない。つまりエラーによる暴走だけには、目を光らせていてほしい。
 期待の結末は、必ず成功か失敗かで判明するものではなく、そんな消化不良にどんな色や形で意味を与えていくのか、つまりどう落とし前を付けていくのかという微妙なラインが、人を人たらせている重要な一線だ。

選挙/衆議院選の投票行動の推測

 今回の選挙は熱かった。何が熱いって、台風の中で主張の明確な党同士が争う、これまでにない波乱だったんだってこと。与野党の混戦選挙区も多かったので、見てる分にはドキドキハラハラしたものだが、さて実際の暮らしにつながってくるとなるとまあ楽しむという視点はなかなか持ちづらいというところだ。
 選挙前に「希望の党」が立ち上がり、センセーションを巻き起こすかに見られていたが、小池東京都知事兼同党代表の「排除発言」で最終的に「立憲民主党」が出来て、野党票が二つに。が、この一連の動きの間に与党自公に動きや大乱はなく、安定した議席獲得は与党となった。
 そのような党の内乱を横目に、有権者はどうやって議員を選んだのか。細かい分析は細かい人に任せるとして、その分析を元手にした推測を立ててみる。
 真っ先に取り上げるのは「知名度候補」だ。自民党でいえば神奈川11の小泉進次郎や、新潟5の泉田裕彦(前同県知事)。立憲でいえば党首で埼玉5の枝野幸男などだろうか。といっても、小泉や枝野は党の目玉候補であり地域住民の信頼感の現れであるのに対し、泉田は一応選挙区では新人なので「党として(というより党の意見と一致して)」より「地域の知名度」が勝っている感じがある。
 知名度でまさる候補も全国には確かにゴロゴロいるにはいるのだが、しかしそのような候補ばかりで選挙というのは成り立たない。では、そんな選挙区ではどのような投票行動を有権者は見せたのだろうか。
 その前に、今回の選挙区の政党配置について考えてみたい。一番多かったのは、「自民・希望・共産」の「保守・やや保守・革新」の構図で、他にも「自・維新・共産」(大阪に多い)など、保守対決になった選挙区が多くある。
 そうなるとやはり、これは「草の根による『党より人』」になるのではないか。なにせ、保守政党は政策自体はほぼ一緒なわけで、そこから選ぶには「人」なのだ。
 しかしその真髄は『党より人』でありながら『人より党』でもある。これはどういうことか。
 強力な政府による政策の必要がある地域――たとえば都市部空洞化・教育政策・原発などの地方基幹産業に関わる諸問題についての、安定的かつ実行的政策を望む地域――は当然、安定的にことを運ぶ与党系候補を選択し、その議員に地域の声を取り入れるよう呼びかけるわけで、そこにリベラル派が同じ路線で食い込めることは無い(与党系の方が圧倒的に実績というアドバンテージを持つ)。結果として都市部では有効な政策をかかげている政党でも、地方では与党批判に移ってしまう構図が、地方においての与党系候補の当選の間接的要因だ。
 たとえば、兵庫の公明党候補2名は、「法案提案・実現の実績」をアピールし圧巻の当選。こういったことからも、与党であるだけで半端ないアドバンテージがあるのは事実。与党にいることで実現力が違う! というのは、確かに間違いではないだろう。
メインの思い・主義主張よりも、自分の生活に関わる切羽詰まった政策がより動きやすい政党に入れるのは、自然な投票行動と言えるだろう。
 どの政党も11月になれば厳しい船出は覚悟しなければならない。維新は現有を大阪で守れず、公明は油断の小選挙区全勝ならず。自民は余裕はあるが現職が追い込まれたケースあり。
 希望は言うまでもなく大敗微減、立憲もまだ組織も構築されておらず党内ガバナンスも気になる、共産社民はもう存在感キラーとの戦いになるだろう。

辛いときこそ高校野球の実況を思い出してみよう

 世の中は照りつける逆光を睨んで進むものだ。
 しかし世界温暖化を目にして、うだるような暑さに理不尽を感じるような人生を思うこともあるだろう。そんなときは、高校野球の実況を思い出すといい*1
 
 たとえば、大学受験。マークミスはセカンドが捕ったと思ったボールをこぼすエラー、
セカンド、ボールを捕っ……あー! こぼしているーーーー!!!! その間に二塁ランナーは一気にホームに帰ってくる!!!!
 このセリフで焦らないものは多分いない。
 問題の回答がコンマ1秒でひらめいたなら、バックホームに例えるとテンションが上がる。
四番平田、左中間を強襲したーーーー!!!! しかし肩の強い好返球が、いいボールが、バックホーム!!!! タッチは……アウト!
 言わずもがな、この平田は現在中日で活躍する大阪桐蔭の元球児である。余談だが、僕は2005年の熱闘甲子園が、素材と調理が共に素晴らしく大好きだ。
 これが連続でひらめきをものにした時だったら、連続三振の大阪桐蔭・辻内や、今年で言うなら花咲徳栄・清水みたいなスーパーリリーフが戦果を上げるシーンを想像しよう。
加速する三振ペース! 三者連続三振! 合格へと、辻内の左腕が唸る!!
 さらにお好みで二塁ランナーを背負うと緊迫感が高まる。
 ちなみに自分を攻守のどちらかに置くかはお好みで。「必ず決めなければいけない」なら守り、「ここまでに仕上げなければならない」なら攻めがいいだろう。
 攻めという意味では、制限時間ギリギリにまだ大問一つ分残っているならこんなことを考えてみるといい。
9回ウラ、四番打者は打ち上げた……2塁ランナー進めないまま。とにかく反撃しようとしますが、遥か遠いのが甲子園のホームだ
 大問一つ分を数分で解き上げるためには、進塁打を放つ勢いを焦りで作らねばならない。
 
 大学受験だけにとどまらない。小が漏れそうな時に思い出していただきたいのが、このセリフだ。
「ピッチャー、ゴロ! 三塁ランナー飛び出していきます、ピッチャーが追い込んでいきます、あー、あー……セーフになった、それを見て一塁に送る…………送球が、逸れたーーーー!!!! その間に三塁ランナーホームイン!! 二塁ランナーも勝ち越しのホームイン!!
 スリーアウトチェンジかと思いきや、危機一髪間に合った球児だっているのだから、俺がトイレに間に合わないわけがないと考えるんだ。急いで駆け込め。ちなみにこれは2005年準決勝、宇部商京都外大西の対決だ。

*1:ちなみに僕は関西民なのでABCの高校野球中継が見られるので、好きな実況の名手はテレビ朝日清水俊輔アナウンサー