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ドラえもん、サンドボックス説

 未来の時代からタケコプターやらもしもボックスやら持ってきてのび太に使わせるロボット狸とは、つまりドラえもんのことである。なんかよく分からないものを四次元ポケットから取り出すわけだが、そもそも出てきてる道具はちゃんと試験されてるものばかりなのか。もしもボックスとか、パラレルワールドに干渉するわけだから一定時間経ったら戻すとかしないとパラレルが進んで修復不可能になるバグとかありそうなもんだが、ドラえもんの持ってきたもしもボックスが持ちうるブレーキは「最初に言った『もしもの世界』とは逆を言う」しかないので、正直、欠陥品に近い。
 そこでドラえもんを捉え直すと、のび太を試験体とした未来の道具のサンドボックスとしてドラえもんが送り込まれたのではないか、という説だ。


 もちろん、未来から見た道具の一般的な改善というのも一つの理由になりうる。のび太は、道具を付加することで未来から見た過去の一般的な児童になるサンプルとして選ばれたと考えれば、自然とのび太が主人公である必然性が見えてくるのだ。のび太の家族は父、母、のび太核家族のび太本人には宿題を忘れる、テストの点数が低いといった学習に関する本人の自覚もある問題が存在する一方、あやとりのように得意なことはとことん得意な子供であるという一面も持つ。これは今なら割と個性として捉えられることも少なくない側面だ。道具を与えてその個性を伸ばしていくことが出来るという仮定に立てば、このドラえもんは一種の教育実験のツールとしても考えられていたことになる。であれば、ある程度のび太が育ったと考えればドラえもんが帰るのも当然だ。


 ただ、ここでドラえもんをツールとしてだけで捉えていると、問題が起こる。ドラえもん自身の変化を無視しているのだ。ドラえもんが過去に影響を及ぼすと、未来の世界にも影響が及んで矛盾が起こることは、これまでもパラドックスとして様々な文献などで指摘されてきた。だが、ドラえもん自身の変化がのび太や未来に与える影響、そもそもドラえもんはプログラミングされながらも意思の余裕を持つのかという問題につながる。「人工知能は心を持つのか?」だ。
 つまり、ドラえもんが道具のサンドボックスとしての機能を果たしている以上に、ドラえもん自身が実は人工知能の精神インストールの最終段階におけるサンドボックスだったのではないだろうか。もちろん、作者が生きていた時代にそんな概念を知っていたはずはなく、あくまで近未来としてのドラえもんと日本社会の象徴としてののび太を対比的に描いたに過ぎないのだが、こうして技術の時代である今を生きる私からは、多大な解釈を時代の進展によって可能にした珍しい作品のように捉えうるのだ。また、教育に関しても非常に進歩的な子供を描きながら、一方では旧態依然のいじめっ子がいたりして、と、日本の子供社会におけるリアルに似た感覚を覚えさせる点も非常に末恐ろしい。