風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

やっぱり、それでも、配信は生音には勝てない?

 

配信ライブなるもの

 新型コロナウイルスの大流行によってライブ文化に大きな逆風が吹く中、「新しい生活様式」なるものとともに配信ライブという新しい形が普及し、少しづつ楽しまれるようになってきている。
 私の記憶では、緊急事態宣言が発出された4月上旬から主要事務所に所属する各アーティストがYouTube上で過去のライブ映像を配信し始め、5月の頭ごろからは無観客ライブと称して一部のアーティストが配信ライブを行っていた。それらは大きな話題を呼んだが、多くは無料配信だったためにライブツアーが出来ない間のアーティストの収益源とはならなかった。
 アーティストも慈善事業じゃないので、お金がないと成り立たない。一応、業界団体や各地行政のガイドラインにも沿ってライブハウスでのパフォーマンス再開もなされたが、やはりライブハウスについたクラスター発生源というスティグマは中々拭いきれず、人気のフェスや大規模なライブツアーは来年以降に延期せざるを得なくなるなど、まだまだライブ文化は正常化されていない部分が多い。
 そこで、いくつかのライブプラットフォームがアーティストたちにライブプレイのできる環境を提供し、アーティストはそこで無観客ライブを行うことによって収入を得ることができるようになったのだが、話は単純ではない。

生で感じるライブの魅力

 私が思うに、ライブの魅力とは、やはり空間における音の広がり・空気感の広がりのことだ。この空間というのは、物理的なものでもあるし、あるいは別の言葉で言い表すならば「場」とも言えるような概念的なものでもある。例えば、ボーカルが声を震わせるその振動は、ライブハウスやコンサートホールの空間のあちらこちらに響き渡って観客の身体を震わせる。高音、低音、すべての音域は観客の鼓膜、聴力、そして感じる振動に聴こえるレンジが委ねられる。そしてライブハウスの空間に焚かれるスモーク、照明演出、音響配置は、たちまちライブの「場」を作り出し、一気に観客を引き込むのだ。ライブの「場」の一体感、オーディエンスが作り出すコール&レスポンスも、その場でしか作られない一回性のものだ。
 ウォルター・ベンヤミンは、今挙げたライブの魅力の中でも、抽象的な一回性のことを指して「アウラ」と呼んだ。ベンヤミン自身は、複製芸術作品が現れた時代において、あるひとつの作品をコピーすることで失われる「いま」「ここ」にあることが失われると述べているが、この概念を使って何が言えるのか──それは、少なくとも「いま」という同時性を満たす配信ライブには、「アウラ」を成立させられる力があるのか、ということではないだろうか。
 話を戻そう。「場」にライブの魅力を求める観客に、どこまで配信ライブが応えられるか。それが、先の「アウラ」を成立させられるか、という話に繋がってくる。というのも、配信ライブは場所を共有しないことが大前提なので、「場」も共有され得ない。先に挙げた音の振動・音域・演出によって作り出される空気感・名も知らぬオーディエンス同士の連帯、これらが作られないとなると、ライブが同期している「いま」の同時性が本当に必要なのか、「アウラ」が作られないのに「いま」を共有する必要はあるのか、という疑問が生じるのも無理はない。また、音という重要な要素から見ると、音質(画質を含めてもよい)はまず送出側の機器・回線に、そして受信側の機器・回線にも大きく依存することとなるので、アーティストが望んでいるパフォーマンスを観客側が十分に享受できない可能性もある。こうした面から考えると、いくら配信する側のアーティストが望んでいても、本質的に配信ライブは生音に勝てないのだ。

「生音に勝つ」必要はあるのか?

 しかし、ここで賢明な読者は「生音に勝つ」という発想自体を疑問に思わねばならない(これ、言ってみたかったんですよ)。
 生音に勝つ必要は果たしてあるのだろうか? 配信ライブが生音のライブよりも価値が高いとみなされて、生音ライブを淘汰する未来がやってくるのだろうか?
 無論、コロナウイルスよりも強力で殺傷性の高い感染症飛沫感染で流行るか、戦争・紛争・テロの危険性が日常的になったとすれば、それはそうならざるを得ない将来があるのかもしれない。逆に言えば、そうならないのならば、生音のライブと配信ライブは共存しうる存在だし、共生のために配信ライブは配信ライブの道を歩む必要があるだろう。
 配信ライブには、生音のライブにはない強みがある。それは、ある意味「場」を作り出すために犠牲にしていたものを形にするための試みでもある。たとえば、ライブの「場」は、観客がステージをまなざす固定的な目線に固定されるという関係を前提として成り立っている。この目線については、演出次第ではこの絶対に溶けない壁すらも溶ける。ステージの中にカメラを持ち込んだり、「カメラ目線」をやってみたり。そもそも、オンラインライブでは座席の格差がないから、まともにメンバーが見えないということもない。ライブの「場」を盛り上げるという役割を果たしていた照明やステージングは、カメラという装置によってドキュメンタリー映画のような質感を演出するための要素へと変貌するのもまた趣深い。ある種の音楽番組的な作り方が参考になることに、なにか連綿と続く日本の音楽文化の系譜を感じてならないのは私だけだろうか?
 音質という面でも、振動や音域という生音ならではの利点と引き換えにして、音域のバランスや音のひとつひとつを聴かせるような工夫がしやすくなっているのは、皮肉なことだが面白い。ライブ会場でよくあるのは、スピーカーの近くになってしまってどちらかの耳だけにすごく負担がかかるといった不運であるとか、聴きたい楽器の音が際立たないといった難しさなのだが、これらはオンラインライブにおいては音質を少し工夫することで劇的に改善することが出来る。
 また、ライブやフェスで成立する物理的・精神的な「場」に対する抵抗感──特にコアなファンが作り出す一体感に対する馴染めない気持ち──に対しても、オンラインライブは応えうるものを持つ。私の友人は、オンラインライブでライブを見る人自体が増えるのではないかと予測していたのだが、その理由が、「自分は汗が飛び散るほど近くに集まって密集するライブとかフェスが苦手だから、そういう人に対してオンラインライブはとてもいい入り口になるんじゃないか」ということだったのには、少し予想外の返答ながら非常に納得したものだ。なるほど、物理的な距離を置くことでパフォーマンスを見ることに集中できるし、アーティスト自身がケの場所にハレの「場」を作ることについて意識的になるかもしれないから、悪いことばかりでもないのかもしれない。

人間は「アウラ」を感じなければならないのかもしれない

 こうした生のライブにはない魅力があったとしても、やはり生音と配信は別物で、超越する存在はないと言わざるを得ないのだ。人は、隔たることをあんなに恐れていたのに、どうしてこれほど遠く離れているのか? その問への答えこそが、人々が生の「場」を求める理由だと考える。「アウラ」を感じること、情動的で言葉にならないものを掴むこと、それが抽象的に過ぎるというのなら、人と人が言葉では感じられないコミュニケーションをするということを求めて、人は集まる。原始からのムラ社会、中世のサロン、スポーツ観戦、そして音楽のライブ。それが出来なくなったときの根本的な代替策が今なお出てきていないこの現状の閉塞感は、そのまま閉塞感として受け止めなければいけないのだと思う。怯えなくてはならない。しかし、それでも表現を止めないために、一回性を守り抜くために、せめて配信ライブという新しい形を作り上げる努力が必要なのかもしれない。