風見鶏はどこを向く?

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where you are

 fhánaのライブを見に行った。

 12月22日、舞浜アンフィシアター、「where you are tour 2019 <divine>」。初めてホールでfhánaの音楽を聴いた。正直、そこに着くまで心配なことはいくつもあったし、自分がこの曲に自分なりの意味を見出すことが出来るのかとすら思っていた。

 「where you are」。

 初めてこの曲を聴いたとき、まず「魂のこもった歌声だな」と思った。魂のこもってない歌声なんか、もちろん一つもないんだけど、でも前提として「僕を見つけて」という大きな曲があって、その前提を共有した上で対比的に聴かれることを想定していたのだな、というのは割と早めに気がついた。その上で、これは何かモードに入ったんだな、という感覚だった。

 

 「僕を見つけて」は、ライブのMCでも度々「レクイエム」と言うくらいの、いわば喪失の曲である。かなりパーソナルな世界観でもある。というのは、fhánaのリーダー・佐藤純一の愛猫であるポンちゃんが今年はじめに亡くなったことを受けて*1、「喪失」というテーマを選んでいる。それとともに、タイアップ先のアニメのテーマでもあり、僕を見つけてほしいという「自己承認欲求」との絡み合いもありながら一つの曲にした経緯があるので、個人的な心情の共有を見せた曲なのである。

 で、それを軸に置いて「where you are」はそのアニメの挿入歌として作られた。作詞はボーカルのtowanaで、MCではあくまでアニメに寄り添って書いたことを強調している。「僕を見つけて」の歌詞は主体的で、「君」が「僕」を見つけてくれたことに感謝しながらも「僕」は旅立つ、というメッセージがある一方で、「where you are」はあくまで「君」を主軸として、でもやっぱり別れについて歌っている曲である。

 で、さらに文脈的には「きみは帰る場所」という、これまた別のアニメ*2の主題歌としてGothic×Luckに提供した一曲が重なってくる。こちらは離別について歌ってはいるのだけれど、どちらかというと歌詞のニュアンスは「帰れる」というポジティブな意味合いが強い。


 三曲を取り巻く環境は、純粋にアニメの中の意味、またはfhánaの中でのパーソナルな世界観であった、はずだったんだけど。

 京都アニメーション放火事件はやっぱり大きな意味を持ってしまった。本当はどこであっても痛ましいことなんか起きてほしいわけがない。特にfhánaにしてみたら、メンバー、とりわけ佐藤さんの憧れであり、「小林さんちのメイドラゴン」で念願の主題歌を担当したこともあり、とても強い思いを抱いていた存在が半ば消失し、それがこの曲の「喪失」という意味合いを皮肉にも強めてしまった。

 作り手が考えるそれ以上の意味を持つことに、どこまでクリエイターは覚悟を持っているのだろう。

 

 ところで、失ったものを取り戻すことは、自分の中で誰かを思い起こすことでしか出来ない。それは空想と言われるかもしれないが、作品の中で絶対に再会することが出来る。それはライブのMCでも佐藤さんが「居なくなった人に触れることは出来ないが、音楽の中で対話することは出来る」といったことと共通している。
 AI美空ひばりというプロジェクトがあるが、あれは過去を再構成することで過去の言葉を想起させる試みであり、失ったものの真正性を取り戻すものでは決してないのだが、でも、していることは失われた人々が作り出した作品の中でその人々に「会う」ことと似ているような気がする。それは巡礼なんだろうという気はする。

  そんな文脈の中で、「あなたの居場所がわからなくても、僕の居場所がわからなくても、私はこの場所であなたのことを思っている」というtowanaの言葉は、物理的に行けない向こう側ではなく、この場所・この地点で相手のことを思うことなんだろう。考え方はなんというか、亡くなったアーティストの後追い自殺の真逆というか、だからあなたはそこにいてほしい、と言ってるんだと思う。俺はライブで「where you are」を聴いたその瞬間に、今年あったいろんな別れがフラッシュバックして、俺の心はかき乱されてしまった。

 あなたはどこにいるのか。私のいる場所を見つけてほしい。

 世界が大なり小なり承認欲求で作られていることは、いよいよSNSが世界の常識となった頃から明白だった。そして動機は何であれ、自分の居場所を叫ぶことだけが私たちの思いを形にするのであった。ただしそれは生半可なものでは、誰にも、まして届けたい相手にも届かない。

 あるいは、届かない相手に向けてそれでも自分のいる場所を叫ばなくてはならないことだってある。それは不条理で、非合理的で、孤独な行為だが、それでも私達は今は消えた相手のことを考え続けてしまう。

 fhánaが歌った3曲、とりわけ「where you are」は、その行為に相当な根気とエネルギーが必要だということを覚悟した上で、それでも誰かのために強い言葉を選んだんだな、と思うものだった。それも、違う意味を持つ前からずっと。冒頭独唱もあった「divine intervention」だって、「僕は愛している/見つけたあの日から/そう君を」と歌っているし、「STORIES」も「もう届かない日々」「君に聴こえる?」と歌っている。届かないかも知れない、と思って歌うことは、なんと辛く、しかし尊きことなんだろう。

 

 記憶の中で別れた誰かに、あなたはどこにいて何を思っているのか。思いが強すぎて歌えなくてもおかしくなかったのに、それに潰されなかったfhánaのメンバー、あなた方は本当に強い。きっと、佐藤さんの言っていた「ゾーン」に入ってたんじゃないかって思う。

 それとは別に、fhánaは(特に佐藤さんは)「再会しよう」とか「また会おう」という言葉をよく口にする。それは、自分たちはやっぱりファンにとっては帰る場所であってほしいという思いであるとともに、「あなたの居場所がわからなくても、僕の居場所がわからなくても、私はこの場所であなたのことを思っている」からこそ、来てくれると信じているから、また会おう! と言い切れるのではないかとすら、純粋に自分は思ってしまうのだ。fhánaのメンバーも、ファンにも、戻るべき日常があるから、その場所から離れるために、そんな言葉を放つ。

 でも、そういうことを言えるのも、ずっと会えると思ってるからなんだよなあ。会えるうちに、会いたい人には会いたい。会いに行きたい人がいることは、会いに行けない苦しさにいつか変わっていくんだろうけども、でもまた会えると思わなくちゃ日常はやっていけないんだなと。そんな脆い仮の思想に満ちている離別の世界を歌っているfhánaは本当に凄い。

*1:歌詞にも「孤独だった野良猫のように」と出てくる

*2:けものフレンズ2」なんですが、ちょっと見てないので詳しい内容には触れません