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人間を知るためのモラトリアム ~伊坂幸太郎『砂漠』

 今週から大学生活が始まった。片道2時間強の電車通学の間にスマホを弄っていると充電が切れるし、かといって乗り換えの多さと複雑さから迂闊に寝ることも不可能だ。そこで、体力と集中力を使って読書に勤しむことにした。2時間×2=4時間もあるので、その中で一冊読み切るのは不可能ではない。とはいえ、その分だけでは内容の読みが浅くなりそうでもあったので、同じ本を翌日も読むことにした。

 ここでは、読書の感想をできる限り書いておこうと思う。

 さて、春休みに「大学生活はそんな素晴らしいもんじゃねえよなあ」と思いながら、ほぼ何も考えずに書店に並んでいた一冊の小説を手にした。伊坂幸太郎『砂漠』。奇しくも大学生活を通しての友情などが描かれる物語だった。

 仙台の国立大学の冴えない法学徒の「僕」(北村)、髪の毛が「やませみ、みたい」な鳥井、ものを動かせる超能力を持つ南、美人で愛想のない東堂、そしてなぜか世界平和を熱く語って周りから引かれる西嶋。新入生の宴会、西嶋に「東西南北に当てはまってるから」と誘われた麻雀を通じて、1年次の春に緩やかな関係を築いていく。

不器用な熱意

 そんな中で彼らを変え、あきれさせるのは、どの章においても西嶋だ。物語に流れる一つの軸は「プレジデントマン」*1という奇妙な通り魔的な人物をめぐる顛末にあり、西嶋はその謎の人物に強い興味を示すのである。その興味の根底には、『人間であるということは、自分には関係のないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ』(サン=テグジュペリ)という、一見、自分が関わっているいないではなく見える世界だけが世界である、みたいな見解がある。

 西嶋は自分が見える世界なら変えてやりたいと思い、そこに関しては臆せず行動する男だ。保護所の犬も飼うところの考えを後回しにして拾ってしまうし、あるいはプレジデントマンに共感して世界平和を訴えたりもする。その不器用な熱意は、時に仲間たちの傷を癒やし、時に抱えている問題を解決するための糸口にもなる。

登場人物の変化

 出会いからしばらくすると、やがて登場人物は様々な出来事に巻き込まれ、ことあるごとに窮地に追い込まれる。特に物語前半では鳥井が苦労人である。彼は俗に言う「お調子者」で、ナンパされた女子と合コンにほいほい付き合って、その女子と結託したホストにボウリング対決を申し込まれて金どころか在学すら危うい状況になったりする*2

 しかし、物語中盤にして、鳥井にも北村たちにも最大の試練というべきことが待っていて、その前後において鳥井は変わっていないように見えて変わっている。「プレジデントマン」に関する出来事に自ら巻き込まれに行ったとはいえ、その結果として悪意ある車に轢かれて左手を失ったのである。

 左手の損失により塞ぎ込む鳥井を、西嶋はやはり持ち前の「不器用な熱意」で救ってみせた。しかし鳥井は身を守るために、そして大切な人を守るために、さらに精神的にも身体的にも強くなる。何より、自ら巻き込まれた出来事に決着をつけようとする。そう、人は変わる。その「変化」を描くための存在が鳥井だろう。

 そういえば、その対極にある「変わらない女」は東堂だ。終始無愛想で、必要のないことは言わない。ただ、彼女の周りと、それに対する西嶋の行動が変化する。そうすることによって彼女のかすかな変化が、直接明示されることはなくとも読むことができるようになっている。なんと構造的に美しい小説か。

「鳩麦さん」とモラトリアム

 伊坂氏はこの小説のテーマを、文庫本に新録されたあとがきにおいて「モラトリアムの贅沢さと滑稽さを描く」という動機があったという発言からほのめかしている。

 さて、この小説は先に紹介した北村たち以外にも複数の人物が登場するが、とくに中盤から後半にかけて鳩麦という登場人物が重要なポジションを担う(序盤から登場はしているのだが)。彼女は大学の学生としてではなく、男性用のブティックのバイトとして登場している。つまり「大学生活としてのモラトリアム」を経験できる立場にない。実際、彼女が北村に同行して様々なことをするのは休日だからであり、北村から見ればすでに社会に出ている存在である*3

 しかし鳩麦が北村との会話や彼らとの行動のなかでモラトリアムを疑似体験しているともいえるのではないか――社会という砂漠に出ているけれど、決して彼女だけでは味わえなかった世界を伝え聞き、実際に上陸することが出来るくらいには。

 「思い出は作るものじゃなくて、勝手に、なるものなんだよ。いつの間にか気づいたら思い出になってる、そういうものだよ」と鳩麦は語る。ずいぶんさらりとした語り口で、この物語の本当の目的、みたいなものを突いている。目まぐるしく動く生活をそう思えるようになるのは、一体いつになるだろうことか。

 ・・・・・・以上の点から、僕は鳩麦は物語の軸を担う重要な人物だと考える。

モラトリアムの意義

 西嶋は「その気になればね、砂漠に雪を降らせることだって、余裕で出来るんですよ」と語っている。無根拠までの誰かの自信によって、多かれ少なかれ、人の生活は動かされている。濃密な人間関係を味わえるモラトリアムの鮮やかさを眼前に突きつける作品だったと言うことになるだろう。

 なんてことは、まるでない。

 登場人物のそれぞれが抱えた問題が複雑に絡み合いながら、自らの決着すべきところへ成長する、そのためにモラトリアムを使うという、贅沢であり、またある種人生の過程でどこかで通過しないといけない「オアシス」のような体験を描いているが、しかし単なる「オアシス」なのではない。踏み出す世界は砂漠のように荒れ果てて広がるが、そこにオアシスはないのであって、また振り返ってオアシスに閉じこもることも不可能だ。だからこそ、僕たちは程度の差はあれど人間を知るためにモラトリアムを使うのだ。

 人間を知ることは、つまり自分を知ることだから。そうでなければ、北村は逃げていくRV車を捕まえることは出来なかっただろう。

*1:この男はアメリカの中東への派兵に反対するため、仙台で大統領を捜し回っている訳のわからない男。なお、刊行は2005年で、当時はそういった時事問題の真っ只中であったといえよう

*2:これは自業自得な面もある気はするが。ちなみにこのときどのようにして切り抜けたかは、小説を読んでのお楽しみということで。

*3:特にP396に注目すればそのことがよく見える