風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

持続可能なメディア構造とは?

 昨日の夜からの大雨と、今朝のオウム真理教関連の死刑執行のニュースと、それらに付随する特番編成でどうにも寝不足です。

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 メディアの具体的な分析は他の人に任せて、メディアの全体構造を俯瞰してみるというのがこのブログの大まかな方針なので、ここで現在のマスメディアの構造を概観し、その構造の持続可能性について論じ、最終的に持続可能なメディア構造とはなんなのかについて記してみたい。

 今回は、「制作者」「視聴者」「企業」の面でこれを論じる。

 

制作者

 インターネットが中心化している状況において、それ以前のマスメディアの中心としてテレビを挙げるのは不自然ではない。インターネットが出る以前においては情報が最速で、かつ詳細な映像・音声があったためである。視聴者側においてはこれは強みではあったが、取材対象においてはメディアによる二次被害が起こるケースも多数見受けられた。有名なケースとしては、松本サリン事件における河野義行さんが警察の悪質な捜査に加えてメディアの取材による二次被害を受けた事例がある。そのため、メディアが歓迎されない構図をも生み出してしまった。*1

  インターネット登場を境目にメディア文化を区切ることは、決して珍しくない。放送法も2005年の改正検討時、CSという通信用衛星からの放送とインターネット上の映像配信サービスとを同じ扱いとして、従来のテレビ放送(ここでは「特別メディアサービス」とされた)と対比し「一般メディアサービス」と分類する提言があった*2 *3

 このような流れの中で、特にテレビには2010年代以降、速報性と詳細性をインターネットと同じほどに強化し、インターネットを利用しない世代に情報源としてよりフィットさせる動きと、それに付随して従来の取材源のほかに「外部情報」を利用する動きが現れてきた。

 主婦層や高齢者の視聴が多い午前中や昼下がり~夕方にかけてのワイドショー戦争は過去最大のものとなっている。こうしたワイドショーは、①新聞・週刊誌という「外部ソース」からの情報、②視聴者投稿の利用、③従来の取材で成り立っており、番組の制作にはほとんど③で成り立っていたときよりも(主に権利関係や情報収集、さらに番組の放送時間の拡大などによって)遙かに多くの人員を要することは容易に想像できる*4。これは果たして、このまま持続可能なメディア構造と呼べるのだろうか。

 この不健全な環境に関連してなのか、2018年は放送界において多くのアクシデントが発生している。ここでは天災ではなく人災に基づく重大なもののみを列記していく。

 このようなアクシデントは、これまで以上に激しい競争に晒されるテレビ局が拙い手段で競争に対抗しようとして労働状況を顧みていないのではないのだろうか。これでは、持続可能どころか、数年すればアクシデントが増加することは間違いないといえる。

視聴者

 ここまでは制作者側において持続可能なメディア構造を考えてきたが、視聴者側が情報に混乱することがないようなインフラとしてのメディア構造も考えていく。

 インターネット時代を情報の洪水と表現することも多くあるが、情報の洪水において視聴者は情報を取捨選択できるようになり、また一方ではそうせざるを得なくなった。テレビはその意味では一方向的で多面的――重要な情報はニュースバリューによってテレビの側から選択され、しかしその見方はチャンネルという文化的フィルターによって多様性を生むこともある――だ。また、従来のマスメディアでは新聞も一方向的で多面的、ニュースバリューもあらかじめ設定されるが、ネットに近い面として、情報量の多さとある程度の選択の自由・時間軸の自由が利くところがある。

 対して、インターネットは多方向的で多面的だがある一定のルールによれば収斂されやすい――重要な情報は個人個人が選択し、チャンネルとは異なる独自の単位において多様性を育むが、その単位に直接誘導されることもしばしばある――。発信のみでは成り立たず、拡散と消化も含めたサイクルが前提になるために、拡散と消化の過程で一部の意見に誘導されることも考慮される。

 このようなメディアの特徴を捉えながら、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということも付け加えておく必要がある。テレビは先に述べたように、もはやテレビ局の取材だけで成り立っているわけではないし、新聞もインターネットサイトで記事を掲載している。インターネットは、既存のメディアの力を借りながら、時には否定しながら成長している。

 つまり、視聴者は一貫したプラットフォームで情報を見渡すことよりも、様々なメディアで情報を得るか、それが面倒で情報を最低限得るようになるかの二択になっているという現象が起きている。これを解消するには、多様な情報を一括して整理できるプラットフォームが必要なのだが、金銭/権利などを考えたときに、一番普及している情報インフラがスマートフォンであることを考えたときに、軸がインターネットとなることは想定されうるだろう。

企業

 最後に、再び制作者側に戻り、「発信者」としてではなく、「企業」として持続可能かどうかについて考える。

 朝日新聞社は2018年度3月期の売上高は3,984万円で、前年度比-2.9%だった*5朝日新聞社の事業セグメントには「メディア・コンテンツ」「不動産」「その他」の3つがあるが、このうち「メディア・コンテンツ」の割合が22.1%なのに対して、「不動産」が72.1%と圧倒的である。もはや、メディア企業はメディア・コンテンツだけでは成り立たない。

 在京キー局ではどうだろうか。2018年3月期決算で見ると*6リオデジャネイロオリンピックがあった前期より広告収入が減少した一方で、メディアコンテンツ以外のイベント・物販・不動産で増収を確保した。特筆すべきは、「動画配信サービス」や「ライセンス収入」という、メディアコンテンツの範囲拡張が起こっていることである。これは先にも述べたが、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということの象徴である。

 メディア企業がメディアを主にしているのに、副業でしか稼げない――この事実は、確かにメディアとして持続可能だがその構造は「延命」されているだけではないのか、という疑問を湧き上がらせる。

まとめ

 今回は、制作者・視聴者・企業の3つの視点から「持続可能なメディア構造」とは何なのか、という問いの入り口に立つまでを考えてみた。まだまだ問いは深くて長いものである。こうすればメディアはいつまでも正しく生きていけるという解決策は、一つとしてない。現実と理想、信頼と冷静、対立する概念同士が積み上がった上でメディアは初めて存在を持ち、ある物事の間に介入を許されて、物事を伝えるのである。だから、概念的には、先に挙げた3つの視点の前に、「メディアという存在」を徹底的に再考する必要があるかもしれない。

*1:

nikkan-spa.jp

*2:

www.itmedia.co.jp

*3:藤竹暁 編『図説 日本のメディア』p79 NHK出版,2012

*4:このような手法はテレビ朝日「やじうま新聞」開始後各局が主に朝の情報番組に活用してきた技術であって、特別なものではないのだが、これが各局の「ワイドショー戦争」に利用されたのは、新たな特徴と見ていいだろう

*5:

www.nippon-num.com

*6:

www.sankei.com

事件報道の経過を辿る ~新幹線襲撃事件から

 

 先日、このツイートを見た。事件報道を巡る現状に対して受ける印象は様々だが、このサイドからの意見は初めて見たような気がしたのだ。

 

 メディアの事件報道は、その強引な取材方法とまとめ方から昨今激しい批判に晒されている。社会から事件報道が求められていない、というのがしあわせな国の冗談に聞こえないほど。そんな中で、事件報道を求めている人が、いったい何を求めているのかを知りたいのだ、と私は漠然と考えていた。その最中のこのツイートは、非常に興味深く、多方面で話題を広げられそうであった。

 メディアの事件報道は、「被害者の外殻」を把握することで事件を知ろうとする。もちろん、その外殻は本人の心情ではなく社会的カテゴリーのことである。「オタク」や「会社員」は、そのようなカテゴリーのひとつだ。
しかし、その外殻とは社会的カテゴリーであるならば、それは社会が生み出したイメージである。そして、社会が社会の中で強化していったイメージでもある。これはどういうことかというと、あるひとつの事件報道が次の事件報道を行う時の対象へのイメージに連鎖してしまうことなのだ。
 人々だけでなく、メディアもイメージに縛られているのではないか。

 メディアは本当の心の中には入ることは不可能だろう。なぜなら人間一個人でさえ、対する一個人の気持ちをすべて理解できるとは思えないからだ。警察でさえ、容疑者の心理をすべて理解していくために証拠を揃えるわけではなく、事件のディテールを把握するために証拠を集めるのである。
 一方で公共性という観点に立つと、「事件がなぜ起きたか」というポイントと同等もしくはそれ以上に公共性が高いものとして、「事件を防ぐ・被害を減らす」ことがあるのだが、事件を防ぐには原因が必要であって、そこを報じないわけにはいかない。しかし、現在のメディアというのは、事件報道になると被害者と加害者双方の周辺を聞き込むこと・記者クラブで警察からの情報を得ることが原因報道の第一歩となっていて、しかもそこから踏み出せていない。実例を、平成30年6月9日の夜に起きた東海道新幹線殺傷事件の事件報道から見ていきたい。
 なお、ここから取り上げるのは、バックナンバー性の低いテレビではなく、バックナンバー性の高い新聞である。また、掲載に際して、被害者名・加害者名は伏せた形とし、プライバシーに配慮する。このあたりはご容赦いただきたい。

 事件の概要

 各紙が主に6月10日(事件発生の翌日)に掲載した概要は以下の通り。

 6月9日午後9時50分頃、「のぞみ265号」車内で刃物を持った男が乗客を殺傷。男性1人(名前伏せ)死亡・女性2人重傷。神奈川県警はこの刃物を持っていた自称無職の男(名前伏せ・22歳)を殺人未遂容疑で逮捕。男は「むしゃくしゃしてやった。誰でも良かった」と供述しており、署は無差別的な犯行とみている。各紙は過去に起きた類似事例として、2016年5月に起きた新幹線のぞみ内ガソリン燃焼による自死事件を取り上げている。

 各紙の報道 ~初動はどうだったか

 ここからは、朝日・毎日・読売・産経の各紙が報道した内容を見ていく。なお、11日朝刊はそろって朝刊は休刊だったため省略する。

 ◆朝日新聞10日朝刊(14版)

 1面では事件概要、被害状況、当時の現場の状況やいきさつ、事件当時の乗客の証言、Twitterに写真が挙げられていることの説明。また、先の類似事例を取り上げている。

 33面では、見出し=『騒然「逃げ場ない」』。乗客の証言で現場の惨状を伝える。また、JRの取り組みについて、「JR、手荷物検査は消極的」と。2001年の米国同時多発テロ事件を機に、車内のセキュリティを強化し、15年ののぞみ自死事件以後はカメラの増設や常時録画を行うことで抑止力としていた。しかし手荷物検査は利便性を失うと消極的。

 ◆毎日新聞10日朝刊(13版)

 1面は事件の概要のみ。不明部分が多く、今回比較した4紙では最も初動の情報が少なかった。

 ◆読売新聞10日朝刊(14版)

 1面では事件の概要と、警察が発表した動機についてと、新幹線の警備体制について。37面では車内の当時の写真と、乗客の証言、また先の類似事例について説明を行っている。

 ◆産経新聞10日朝刊(14版)

 1面は事件の概要と類似事例について。29面は見だし=『「助けて」後方車両に逃げ』。ネットの書き込みも取り上げる。

【分析】

 10日朝刊については、前夜に起きた事件とあって情報が不足した毎日新聞と、朝日・読売・産経の各紙の情報量の差が激しいものだった。事件発生から24時間が経過していないために、動機についての報道はまだ進展しておらず、むしろ事件を具体的な事象として捉え対策の検証を取る態度がほとんどである。

 各紙の報道 ~時間経過は報道にどのような影響をもたらしたか

 日曜日は夕刊が発刊されない。また先も述べたが、11日朝刊は休刊日だった*1ために、次に取り上げるのは11日夕刊である。この時点で、事件発生から1日半ほど経過をしており、この時間がどのように報道に影響しているのかを分析したい。

 ◆朝日新聞11日夕刊(4版)

 事件概要、現場の状況に加え、男が自殺をほのめかしていたこと、被害者遺族のコメントが報じられた。

 ◆毎日新聞11日夕刊(3版)

 前日と比べ、写真がついてより詳細になった。県警は殺人に切り替えて捜査とのこと。男のリュックサックからなたやナイフ。11面では乗客の混乱の様子。男が「自分は価値ない」と供述している。

 ◆読売新聞11日夕刊(4版)

 被害者男性が犠牲になったこと、加害者には「自殺願望」があったこと、遺族のコメント、JRについて。

 ◆産経新聞11日夕刊(4版)

 1面。死亡した男性が女性をかばって殺されたことが判明。「前触れ泣く無言で刃物」。堺の男子高校生(乗客)は、服に血がついて血だまりを見た、と。加害者男性は半年前に家出しており、自殺願望があったという。新幹線は安全対策が必要であるという記事、それに被害者男性への悲しみの声。

【分析】

 やはり時間の経過とともに、加害者男性を取り巻く環境と動機らしきものを探ろうとする傾向が高まっている。しかしながら、動機が詳細より大事というわけではなく、むしろ詳細に関しての記述が強化されている。

 各紙の報道 ~詳しくなる加害男性の内面的記述

 12日朝刊を見ていく。その前に、報道を見る際に当事者のコメントが大きく影響することがある。ここでは、この日に報じられた加害者の実母のコメントを抜粋する。

「どちらかといえば正義感があり、優しかった一朗が、一生掛けても償えない罪を犯したことで困惑している」

「私なりに愛情をかけて育ててきた」

(就職がうまくいかず、自殺をほのめかすようになった直後の、祖母との養子縁組のあとに)「無理矢理連れ戻していたら」

 ◆朝日新聞12日朝刊(14版)

 34面。犯人は祖母宅から家出をし、その祖母名義のキャッシュカードを用いて数ヶ月野宿をしており、事件の当日に上京している。長野県で刃物を買った。実母のコメントは上記。また昨年末より親族を離れたか。一方、被害者男性の人柄についても記述されている。

 ◆毎日新聞12日朝刊(13版)

 31面。加害者が唐突に襲撃してきたこと、勤務先にコメント。加害者のノートに「新しい自分を取り戻す」。

 ◆読売新聞12日朝刊(14版)

 39面。凶器、被害者について取り上げている。

 ◆産経新聞12日朝刊(14版)

 26面。22歳容疑者は長野で野宿していた、「この世にいても無駄」。新幹線の密室での犯行をどう防ぐかについても取り上げている。

<分析>

 より加害者の犯行動機に接近した報道になっている。実の親・祖母など、近辺の人間関係から探っている。

 各紙の報道 ~以降の報道頻度と、詳細な報道

 ここからは各紙で報道のタイミングが異なる。13日はほとんど報道がなく、14日朝刊・夕刊までを一応チェックした形での分析になることをご了承願いたい。

 ◆朝日新聞14日朝刊(14版)

 32面。JR車掌が加害者が犯行時に15分間「話聞きます」と説得していた。神奈川県警の取り調べに対して、「人を殺したい願望があった」「社会に恨み」。一方、車内で座席を取り外して自己防衛する手段という意味での「盾」を取り上げた。

 ◆毎日新聞14日夕刊(3版)

 29面。取り調べに加害者「社会拒む」。車掌が加害者を監視していた。

 ◆読売新聞14日朝刊(14版)

 34面。ナタやナイフは3月に購入したもの。

 ◆産経新聞14日朝刊(14版)、同日夕刊(4版)

 朝刊は31面。「殺人願望 昔から」。夕刊は、死亡した被害者男性が転倒後に再び制止して反撃に遭ったとみられることと、車掌長が15分説得したことを伝えた。

<分析>

 事態の把握→被害者・加害者の詳細というフローはすべての新聞で徹底されている。テレビほど報道がセンセーショナルである必要もなく、ある意味冷静ではある。新聞というメディア故の結果だったかもしれない。テレビでの分析を行いたいとも思ったが、スケジュールと分量から不可能だった。

非日常と日常の狭間から、ごきげんよう

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 ここのところ、非日常と日常の境目にあるふわふわとした雰囲気に自分の身が置かれているような気がしている。そもそも、「非日常」と「日常」は確かにぱっきりと分かれている空間があるのだけれど、その間にグラデーションが存在していて、「日常」から「非日常」は急激だけれど、「非日常」から「日常」へのトランジションは緩やかで、ついその切り替えのグラデーションに酔いそうになるのである。

 先に「非日常」の話をしたい。僕にとっての日常である大学とバイトが消化された後、母校の文化祭に顔を出した。某タレントの出身校というつながりから最近は某芸能事務所に牛耳られ気味な我が母校だが、今年もどこぞの大学のごとく豪華な文化祭であった。アホみたいな雰囲気ですらある。もちろん、高校にいたときの文化祭は「日常」であったのだが、外から一部分としてではあるけれど客として文化祭を眺めたときの「非日常」を味わってしまったのである。ここからしばらくの浮遊感が始まってしまう。

 過去の「日常」を振り返ることは「非日常」なのか、それとも「日常」の平行線の続きなのか・・・・・・。文化祭の途中で部活の同級生に出会ってかなり話し込んだ。彼女らには僕の不手際で大きな迷惑を掛けたので、半分後ろめたい気持ちもあった。それでも近況トークは盛り上がったし、持ち込んだ差し入れはウケたし、なんだかヌルッと「日常」に潜りこんだ感じがしている。別れるときだってなぜかどこかで会える感じしかしなかった。これは、とてつもなく変な空気だ。よそよそしさを空気として介在させながらもそれを手なずけるコミュニケーション。久々にあった人々とはそんなコミュニケーションをしていたので、少し壁を感じかけていた。(まあ言うて悪い雰囲気じゃなかったけど)

 そんな空気を身にまといながら、日曜日はfhánaのライブに出かけた。朝は遅めに出かけて、モチベーションの低下を抑えようという目論見だったのだが、JR神戸線の遅延によってくたびれさせられた(そのほかにもいくつか面倒ごとがあったのだけれど、ここでは語り得ないことばっかり)。阪神に乗り換えた後に、「定期券の範囲で使えるじゃねーか」と自分の頭の悪さを呪ったりしたが、その頭の悪さのおかげでクソほどうまいつけ麺屋に行けたりしたので、その辺は運である。このあたりは「非日常」のオーラに上手いこともってかれた例、な気がする。

 ふぁなみりーの方々との挨拶や、会場脇の洒落たカフェでの小さな集まり、物販で高まったり、それで「非日常」の色は濃くなるばかり。そして始まったライブは、まさしく「非日常」の極みだった。これは公式でも呟かれているからネタバレじゃないと思うのだけれど、JUDY AND MARY「そばかす」と、小沢健二 feat.スチャダラパー今夜はブギー・バック(nice vocal)」をカバーしたのだ。特に「そばかす」のyuxukiさんの冒頭の暴れん坊ギターと、「今夜はブギー・バック」で佐藤さんが「Say! towana!」ってコールするとこっちがレスポンスで「towana!」って返す流れ、さらにkevinのラップのうまさが際立っていて楽しかった。そのほかの(セトリバレの怖い)fhána曲も、昨年のツアーに比べ洗練されパフォーマンスとして最高レベルに到達したエンターテイメント、もしくは美しい何かになった。これが「非日常」である。完璧なまでの「非日常」である。自分の体験を超えた何かを知らせてくれることを、僕は「非日常」と呼ぶのだろう。

 ふぁなみりー数名ほどで、ライブ後に打ち上げ的なものを行った。打ち上げのハイライトは「いち亀兄さんがとあるふぁなみりーカップルのことをご存じなくびっくりされていたこと」で確定。このあたりは「非日常」の名残を味わうためのトランジションだったのかもしれない。帰りはわりとギリギリになって、最寄り駅にちょうど24:00着となったので、なんとなく自分がシンデレラになったような感じがした――魔法が解けるように、「日常」に戻っていく。阪急梅田駅発の快速急行は実際路線的には定期券で毎日毎日通っているわけで、あー明日はこの小豆色の電車に朝から乗ってんのか、信じらんねえなあと思っていたものだ。それでも、「日常」に戻る覚悟は、fhánaのライブのコンセプトを体で感じたときから持っていた。

 だから、今朝こうして、突然(こちらから見て遠方を襲った)地震により「日常」ではなくなったけれど「非日常」でもないこの微妙な線上に立つ空間に戸惑いながら暮らしている。まさか、昨日訪れた場所が地震に襲われるなんて思っているわけもなく。休講になったあと何の気なしにつけたテレビには、昨日訪れた電車の駅の階段でまだ来ない電車を待つ人々や、乗り換えを間違えた時によく引き返す駅の表示板が傾いたり、「日常」だったものを吹き飛ばそうとするほどに衝撃的な映像が繰り返されていた。

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 現在もこうして地震による影響で断水などが行われていたりして、なにもかもが今夜心細く見える人がいるのかもしれないし、また、地震とは関係なしに、トランジションもなしに「日常」にたたきつけられた人がいるのかもしれない。もちろん、僕のように、なぜか「非日常」と「日常」の狭間に迷い込んだ人もいるだろう。

 しかし、音楽や文化、小説やリズムは、どのような人にも――決して身体的にとはいえないものの、精神的に平等に与えられ――そばに寄り添ってくれているのだなと、痛感している。それを、fhánaがツアーで一番いいたいことだと思っている。どのような「日常」にも、どのような感情をも引き受けうるクリエイターの精神と器量に乾杯、そして普通の「日常」の人々に賛辞を。誰にも、望めばいつかまた「非日常」の入り口が開くチャンスがある、と僕は感じた。

 なぜだかまとまらない文章になったのは、この数日間にまったく現実感がないのと、寝不足によるものだと思うのだけれど、いいオチも考えつかない。とりあえず、非日常と日常の狭間から、ごきげんよう

電子関所の妙

 鉄道系ICカードを使った改札の仕組みを見て、「これって"電子関所"じゃん」と、それも電撃が走ったように、感じたのである。関所は渡るための札を必要とするが、ICカードってまさにその札なのだ。つまり、今までは(もしくは、今も)関所を通る度に関所手形、いわば「通行券」を出していたようなものだが、それではあまりにも非効率すぎる、と考えたのだろうなあ。高速道路のETCもたぶん同じ発想ではないだろうか。
 しかも関所なのに、昔の一本化されていた関所とは異なって、ある人には開かれ、またある人には開かれない。この「開かれない」ということは、閉ざされている訳でもないのだ。電車を使わなければ、別にその関所を通らなくたっていい、高速道路を使うなり、自転車を使うなり、最悪の場合歩けばいいので。その意味では、関所はある意味消滅したようでいて実は高度に進化して生き残っているように思われる。
 この現状は、一元的なサービスでキャッシュレス化を進める中国とは対称的なものだと言える。中国では屋台も電車もレンタルバイクも飯の注文もすべてスマホQRコードを読み取らせているので、ある意味スマホが関所手形と化しているが、日本では様々な関所に様々な関所手形があって、これは中国の人々から見て「面倒くさいな」と見られるのだろうか・・・・・・。などと、電車通学を始めて思った。

生徒会長

 大学で校友の輪が広がりだした。授業ごとに友人が見つかるのは、友人たちの集団というものができやすい中学や高校よりも直接人となりに踏み込めるので、個人的にはとてもありがたかった。

 反面、大学生活にもいいことばかりがあるわけではないのはご周知の通りで、一つはコミュニケーション能力の不足を痛感させられるグループ型授業、一つは長い通学時間だ。通学時間でいうと、だいたい過不足なしの二時間を2セットが週5日で、阪神地域の通学通勤ラッシュとも重なることから、疲労感と時間のなさを痛いほどわからされる日常だ。

 小豆色の某私鉄から、三ノ宮で混雑する新快速を避け快速電車に乗り継ぐ。今日はそこまで混んでいなかった。ホームでやや人の少ない乗車位置に立ってその列車を待ち合わせていたところ、中学時代の同級生を見かけた。まさか、こんなところで出会うとは・・・・・・という気持ちがあり、やや動揺した。

 その同級生は生徒会長だった。いかにも頭が冴えたやつで、生徒会の中でも嫌みのない明るさを発揮した人物だった。中学時代を通じて浮いていた僕にも話しかけるような変な人でもあり、俺の中で中学生活で印象深かった人物の一人だ。

 生徒会長はほかの優秀な生徒がそうしたように、地域の最上位の高校に行った。その概況を見つめながら、漠然とではあるが、彼はもしかしたら違う次元の世界に翼をはためかせていくのではないか、恐らくそうなったら「忘れ得ぬあのひと」になりえるな、と思うことだった。

 その男と、まさか神戸の駅ですれ違うことになるとは思わなかった。俺はその旧友に近づいて挨拶を交わそうとした。しかし彼は気づかない。年月は人を忘却させてそのまま記憶ごと押し流していくのか、と瞬時に思う。

 その快速電車が須磨を抜けたあたりで、朝からの疲労がピークにさしかかってクタリと寝てしまった。稲穂の垂れる頭かな、そんな寝方をしているとどうしても肩がつらくなってきて、最寄り駅の少し前で寝ぼけつつも目を開けた。

 起きたタイミングにちょうど生徒会長だった男が電車を横切っていった。そのときに顔を正対する形になって、「あ、俺のこと覚えてる?」「K(仮名)やん、おひさ」と軽い言葉を交わした。だが、それだけいうと彼は俺の方を一瞥もせずにそのまま列車の中を突っ切っていった。最寄り駅も同じはずなのに最後まで見かけることはなかった。

 あいつはどこに行ったのだろうか。その問いには、電車に乗ってどこに行ったのだろうか、という意味以上のことがある。

 俺は本当にアイツが元生徒会長のKだったのかと、本当は別人で、願望のままに思い込んで寝ぼけていたのではないかと思うところもある。だが、アイツの姿は眼鏡も背格好も中学の面影を強く残していた。それだけに、違う世界に飛び立っていたものだと勝手に思っていた人がいまだにこの場所にいるということから、ではアイツはどんな世界を見てきたのだろうという疑問が湧き上がってきた。

 しばらく会っていない人がその目で見た世界はどんなものだったんだろうか。それをずっとずっと考えている。

 最寄り駅の出口を出た瞬間にとても激しい雨が降り出した。ここ数日見なかった雨だ。それは何を意味していたのだろうか。出来すぎていたくらいのタイミングだった。

 

 

世界地図はまだ完成さえしていない ~fhána「World Atlas」

 fhánaの「World Atlas」を聴いて思ったことをつらつらと。

 このアルバムがある一つの道筋を見つけたかのように思われ、またタイトルを付けるところにも至ったのはちょうどトラック2の「青空のラプソディ」の頃である。この曲はキャリア最大のヒット曲であると断言可能な代物で、またボーカルのtowanaの喉の手術から復帰して初めての曲でもある。そんな「青空のラプソディ」は、今までのシングルとは違う外向きな曲であり、佐藤純一というひとりのクリエイターのルーツが詰まっているポップな曲である。それも、明るすぎるんじゃないかってくらいはじけた曲。

 アルバム全体を見渡したとき、「青空の―」は、リードトラック「World Atlas」とトラック3「君の住む街」の間にある。さらに続く「Do you realize?」を含めたこの4曲は、強い祝祭感と心の衝動に支えられている。このあたりはかなりライブで披露することを意識した選曲・曲順となっていると思う(曲順としては「君の住む街」が少々明るすぎる気もするが)。

 「Do you realize?」は、その流れをよりエモーショナルに加速させ、アルバムバージョンとしてイントロが拡張された「わたしのための物語 ~My Uncompleted Story~」へと流れ込む。歌詞は純粋な熱情と切実さが表現されていて、先の流れとはまた違った心の動きが表現されている。とはいえ、「祝祭の街」的イメージの括りで見れば、トラック1~5までがひとつの流れになっていると思う。

 祝祭の街から「回想としての街」へのトランジションに「reaching for the cities」を使ったのは、次トラック「ユーレカ」とのつながりを考えたときにやや光りすぎるというか、目立ちすぎた感じがする。音楽としては「reaching ―」の『旅に出ようとする青年の』軽さと、「ユーレカ」でのtowanaの『上京した人々が知らぬ街で奮闘しながらなにかつかもうとするような』切実なボーカルがまったくの異種であるから、ここは街という共通点だけでは読み解けないところがあるんだろうか。

 「ユーレカ」~「アネモネの花」~「star chart」~「Rebuilt World」~「ムーンリバー」の流れは完璧で、寂しくも美しいところがある。切なさがメロディの端々からあふれ出す。物語をつなげていくからこそ、その繋ぐ部分に物語が生まれるというところは、この流れの中にアニメタイアップは1曲だけであることからも、またfhánaのいままでの活動を振り返っても自明であると。

 ところで、「ムーンリバー」の仄暗さがこのアルバムの最大の静寂であり、「ムーン」なのだから「夜」なのだろうし、と考えたところで思いついた。ふと思えばこのアルバムは街の日常を朝から夜まで見つめているとも思う。「World Atlas」が朝9時くらい、「ユーレカ」までが昼から夕方への移り変わり、「アネモネの花」は夕方で「star chart」~「ムーンリバー」までは間違いなく街に訪れる夜である。

 とすれば、「Hello! My World!!」は一体どのポジションなのか。この構成すべてが僕の仮定の下に立っていて、それ以上でもそれ以下でもないことはわかっているが。わかっているが、この曲の明るさは実際始めにあってもおかしくない。それをわざわざここに持ってくるというのは、「Rebuilt World」~「ムーンリバー」における『復活』を象徴する曲だからだと思う。「Hello! ―」も『さぁ光ある明日へ』と歌う。次の朝への祈りと表現するのはなんとも詩人的すぎるか。

 トラック13「Calling」。この旅においての深い夜である。休息である。旅の終わりである。長いアウトロが旅の記憶をフラッシュバックさせる。そのあとの静寂が眠りを想起させ、ラストトラック「it's a popular song」が流れ出す。

「そう 行くんだ 次の目的地へ 戻れぬ港に 手を振って」

 リスナーだけでなく、この世に生きとし生けるものが共通して持つ感情のかけら――いつか失われ、そしてまた作られる――を歌に乗せて訴えるのがこの曲の役割である。

 ここまで書いておいて、「褒めておいて落とす」のもアレだけれど、このアルバムは(というか、いつもだけど)コンセプチュアルに仕上げられすぎた。新曲が少なく、大幅にカップリング曲が収録されていて、買う側としては旨みがない。マーケティングとしてなら首をひねる品物なのは言うまでもない。だがそれ以上に大事なことがある。

 fhánaは外に出ることを望んだ。そのためには、今までの曲を新しい曲とうまく融合させていき、より新しくなることが必要だ。それが今回どこまで出来たのだろうか。構成自体はとても美しいけれど、曲の一つ一つを見ていったときに、アニソンで新しい主流になりつつあるサビの二段重ねや「fhána方式」(『2サビからDメロへ急に行って、そこに最高沸点を持ってくる手法』と田淵智也UNISON SQUARE GARDEN)が語ったもの)*1にかなり縛られていると思う。逆から見れば、 yuxuki さんの曲からエネルギーが見えるのは自分のメソッドに固執せず自然体で作ることが出来るようになったから・・・・・・なんて思ってみる。

 このアルバムが「いい世界地図」なのではなく、これから旅をしていくことで「世界地図」は完成していくと思った方がいいのかもしれない。それはライブかもしれないしシングルなのかもしれないし次のアルバムの可能性もある。

女性記者とテレ朝の対応は間違っていたのか

 財務省福田淳事務次官はセクハラ問題を否定したものの、政治を混乱させたということで事実上更迭された。このセクハラ被害に遭ったのはテレビ朝日の記者であったということが、18日のテレビ朝日報道ステーション」・19日未明の会見で明らかになった。

 週刊新潮が発表した音源データや周囲の証言から福田事務次官についてはさすがにもう黒であることが判然としている以上、いま注目されているのは「テレビ朝日の対応は正しかったのか」ということである。

 18日朝刊の朝日新聞・読売新聞によれば、女性記者は自己防衛のために事務次官とのやりとりを録音しており、これについて報道するよう相談したが、上司が難色を示したため、週刊新潮編集部にデータを提供していたということがわかる。これについて、テレビ朝日の会見では、データ提供の件には「取材過程で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切で、遺憾である」とのコメントをしている。一方で、この件を報道しなかったのは「二次被害を恐れたため」だともいう。

 さて、テレ朝の対応に問題があるのは主に次の2点である。

  1. 報道をしていて、その被害者に対しての配慮が適切に出来ているかの定期点検をしているかわからない=二次被害にいままで鈍感だったのではないか、ということ
  2. 「取材過程で得た情報」とはいえ、女性記者の件は取材相手からの人権侵害にあたるもので、それに迅速な抗議が出来なかったのか、ということ(初動が遅い)

 特に2は問題である。この問題は記者でなくとも人として重大な人権侵害にあたるものであって、通常なら法廷闘争に持ち込むためにも録音をするのは普通である。それを元手にうまくやれなかったというのは、メディアとしてどうなんだろうかということだ。

 一方で、今回に関しては二次被害に敏感にならざるを得なかったのではないかというところも存在する。民進党の会見においてフリーランスの記者が女性記者の実名を晒したほか、「ハニートラップ論」を掲げるトンデモがいたり、もうカオスである。どうなってるんだ。そんなやつがいるから報道をためらう羽目になるんだぞ。意識が古すぎる。

 正直言って、全般的には「初動は遅いしだいたいこんな真夜中にやっておかしいと思わないのか」というマイナスイメージが強いが、しかし実際論、言わないと議論の起こらない話であった以上、この会見は開かれるべくして開かれた会見であり、会社の体質と向き合っていくという意思表明である。つまりこの表明に背くことがあったなら、大きな罰を背負うことになるわけで、そういうことを考えてまでも意思を表明するのはたやすいことではない。

 実際問題、週刊新潮が報じなければ麻生大臣はじめ多くの言論・政治関係者が事務次官の強気に押されて信じ込んでしまっていたからこそ、メディアの力にはいい意味で自覚的であることがいいと思っている。その意味で、テレビ朝日は一度、負けたのだ。

 思想言論に生きるよりも、現実に寄り添って強く生きる方がもっと難しい。茨の道を歩きだした。