風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

やっぱり、それでも、配信は生音には勝てない?

 

配信ライブなるもの

 新型コロナウイルスの大流行によってライブ文化に大きな逆風が吹く中、「新しい生活様式」なるものとともに配信ライブという新しい形が普及し、少しづつ楽しまれるようになってきている。
 私の記憶では、緊急事態宣言が発出された4月上旬から主要事務所に所属する各アーティストがYouTube上で過去のライブ映像を配信し始め、5月の頭ごろからは無観客ライブと称して一部のアーティストが配信ライブを行っていた。それらは大きな話題を呼んだが、多くは無料配信だったためにライブツアーが出来ない間のアーティストの収益源とはならなかった。
 アーティストも慈善事業じゃないので、お金がないと成り立たない。一応、業界団体や各地行政のガイドラインにも沿ってライブハウスでのパフォーマンス再開もなされたが、やはりライブハウスについたクラスター発生源というスティグマは中々拭いきれず、人気のフェスや大規模なライブツアーは来年以降に延期せざるを得なくなるなど、まだまだライブ文化は正常化されていない部分が多い。
 そこで、いくつかのライブプラットフォームがアーティストたちにライブプレイのできる環境を提供し、アーティストはそこで無観客ライブを行うことによって収入を得ることができるようになったのだが、話は単純ではない。

生で感じるライブの魅力

 私が思うに、ライブの魅力とは、やはり空間における音の広がり・空気感の広がりのことだ。この空間というのは、物理的なものでもあるし、あるいは別の言葉で言い表すならば「場」とも言えるような概念的なものでもある。例えば、ボーカルが声を震わせるその振動は、ライブハウスやコンサートホールの空間のあちらこちらに響き渡って観客の身体を震わせる。高音、低音、すべての音域は観客の鼓膜、聴力、そして感じる振動に聴こえるレンジが委ねられる。そしてライブハウスの空間に焚かれるスモーク、照明演出、音響配置は、たちまちライブの「場」を作り出し、一気に観客を引き込むのだ。ライブの「場」の一体感、オーディエンスが作り出すコール&レスポンスも、その場でしか作られない一回性のものだ。
 ウォルター・ベンヤミンは、今挙げたライブの魅力の中でも、抽象的な一回性のことを指して「アウラ」と呼んだ。ベンヤミン自身は、複製芸術作品が現れた時代において、あるひとつの作品をコピーすることで失われる「いま」「ここ」にあることが失われると述べているが、この概念を使って何が言えるのか──それは、少なくとも「いま」という同時性を満たす配信ライブには、「アウラ」を成立させられる力があるのか、ということではないだろうか。
 話を戻そう。「場」にライブの魅力を求める観客に、どこまで配信ライブが応えられるか。それが、先の「アウラ」を成立させられるか、という話に繋がってくる。というのも、配信ライブは場所を共有しないことが大前提なので、「場」も共有され得ない。先に挙げた音の振動・音域・演出によって作り出される空気感・名も知らぬオーディエンス同士の連帯、これらが作られないとなると、ライブが同期している「いま」の同時性が本当に必要なのか、「アウラ」が作られないのに「いま」を共有する必要はあるのか、という疑問が生じるのも無理はない。また、音という重要な要素から見ると、音質(画質を含めてもよい)はまず送出側の機器・回線に、そして受信側の機器・回線にも大きく依存することとなるので、アーティストが望んでいるパフォーマンスを観客側が十分に享受できない可能性もある。こうした面から考えると、いくら配信する側のアーティストが望んでいても、本質的に配信ライブは生音に勝てないのだ。

「生音に勝つ」必要はあるのか?

 しかし、ここで賢明な読者は「生音に勝つ」という発想自体を疑問に思わねばならない(これ、言ってみたかったんですよ)。
 生音に勝つ必要は果たしてあるのだろうか? 配信ライブが生音のライブよりも価値が高いとみなされて、生音ライブを淘汰する未来がやってくるのだろうか?
 無論、コロナウイルスよりも強力で殺傷性の高い感染症飛沫感染で流行るか、戦争・紛争・テロの危険性が日常的になったとすれば、それはそうならざるを得ない将来があるのかもしれない。逆に言えば、そうならないのならば、生音のライブと配信ライブは共存しうる存在だし、共生のために配信ライブは配信ライブの道を歩む必要があるだろう。
 配信ライブには、生音のライブにはない強みがある。それは、ある意味「場」を作り出すために犠牲にしていたものを形にするための試みでもある。たとえば、ライブの「場」は、観客がステージをまなざす固定的な目線に固定されるという関係を前提として成り立っている。この目線については、演出次第ではこの絶対に溶けない壁すらも溶ける。ステージの中にカメラを持ち込んだり、「カメラ目線」をやってみたり。そもそも、オンラインライブでは座席の格差がないから、まともにメンバーが見えないということもない。ライブの「場」を盛り上げるという役割を果たしていた照明やステージングは、カメラという装置によってドキュメンタリー映画のような質感を演出するための要素へと変貌するのもまた趣深い。ある種の音楽番組的な作り方が参考になることに、なにか連綿と続く日本の音楽文化の系譜を感じてならないのは私だけだろうか?
 音質という面でも、振動や音域という生音ならではの利点と引き換えにして、音域のバランスや音のひとつひとつを聴かせるような工夫がしやすくなっているのは、皮肉なことだが面白い。ライブ会場でよくあるのは、スピーカーの近くになってしまってどちらかの耳だけにすごく負担がかかるといった不運であるとか、聴きたい楽器の音が際立たないといった難しさなのだが、これらはオンラインライブにおいては音質を少し工夫することで劇的に改善することが出来る。
 また、ライブやフェスで成立する物理的・精神的な「場」に対する抵抗感──特にコアなファンが作り出す一体感に対する馴染めない気持ち──に対しても、オンラインライブは応えうるものを持つ。私の友人は、オンラインライブでライブを見る人自体が増えるのではないかと予測していたのだが、その理由が、「自分は汗が飛び散るほど近くに集まって密集するライブとかフェスが苦手だから、そういう人に対してオンラインライブはとてもいい入り口になるんじゃないか」ということだったのには、少し予想外の返答ながら非常に納得したものだ。なるほど、物理的な距離を置くことでパフォーマンスを見ることに集中できるし、アーティスト自身がケの場所にハレの「場」を作ることについて意識的になるかもしれないから、悪いことばかりでもないのかもしれない。

人間は「アウラ」を感じなければならないのかもしれない

 こうした生のライブにはない魅力があったとしても、やはり生音と配信は別物で、超越する存在はないと言わざるを得ないのだ。人は、隔たることをあんなに恐れていたのに、どうしてこれほど遠く離れているのか? その問への答えこそが、人々が生の「場」を求める理由だと考える。「アウラ」を感じること、情動的で言葉にならないものを掴むこと、それが抽象的に過ぎるというのなら、人と人が言葉では感じられないコミュニケーションをするということを求めて、人は集まる。原始からのムラ社会、中世のサロン、スポーツ観戦、そして音楽のライブ。それが出来なくなったときの根本的な代替策が今なお出てきていないこの現状の閉塞感は、そのまま閉塞感として受け止めなければいけないのだと思う。怯えなくてはならない。しかし、それでも表現を止めないために、一回性を守り抜くために、せめて配信ライブという新しい形を作り上げる努力が必要なのかもしれない。

20190228

 「野球が特別扱いとか言ってるけどそれこそ訳がわからん(気持ちはわかるけど開催する方を叩くのは違う……)」「なんなら学校の休校・部活の休止だって過大な対応で、一切するべきものではない」という個人的な意見についてつらつらと。
 ただ、あくまで個人的な意見を述べるだけなので、どうしてほしいとかは別にない。

 

 萩生田大臣は余計なことを口走ったなとは思ったが、まさか吹奏楽界隈から批判が来るとは思わなかった。気持ちはわかる。センバツ出場校と同じ立場で明暗が分かれたわけだから、落胆の声が上がるのも当然だ。だからといって、他人の不幸を願っていいものか、私には気持ちがわかりかねる。不公平だ! で他人のチャンスをこそぎ取るのは違う。
 それと、野球を普段見ない層からセンバツを中止しろと簡単に宣われるのも困る。知らないんだろうなあ。ここまでほとんど半年かけて秋から試合を勝ち抜き、冬の練習を経て選ばれた高校の高校球児のこと。かわいそうとかいうなら何か案出せよな。言うだけは簡単だよ、無観客とか中止とか。無観客でも俺らは正直見れんだっていいけど。でも甲子園だよ?
 世論が同調圧力で動かせるなんて思ってもらっちゃあ困る。本人にその気がないのかもしれないけど、現にそうなってるから害悪としか思っていないよ。言葉が強いからここに載せてるけど。

 

 なんなら、学校を全部休校にすることだって本当はありえないんだよ。これは内閣府のHPにも書いたことなんだけれど、「休校した! では終わらない」ことが本当に大前提なんだよ。共働き世帯はどうするの。入試だって大学も高校もまだまだあるよ。未就学児なんか祖父母に預けたら、その祖父母にコロナがかかってダウンなんてこともあるかもしれへんやん。休みになった! って言っていろんなところ遊びに行くかもしれないけど、まさかそのためだけに商業施設を閉めろなんて言わないよね? って思ってたら、閉めよった。やばいよ。経済止まるよ。
 学校は普段どおり開けておいたほうが安全な場合が多い。絶対に開けたほうが安全!ってわけではないけど、いろいろな弊害を考えたら学校も部活も普通にやって、過剰反応を促さないほうがかえって安全をもたらすこともあるでしょ? と思う。
 俺ね、結構前から政権批判をやってたんですけど、最近は疲れたので控えめにしてたんです(毒はあいかわらず吐いてましたが)。でももうこれは耐えられへんな、と。いつまでも黙っとると思うなよ。
 いつもはもっとポライトな書き方をするんでしょうけど、感情に任せて書きました。

 

 あと、いつもはマスコミ側に立って意見すること多いんですけど、さすがに今回ばかりはヤバすぎる。そりゃ国民の関心はほとんどコロナですけど、そもそもコロナに対しての関心はマスコミが作った部分がある以上、これ以上煽るのはちょっとまずい。ワイドショーもいつもの芸能ゴシップとは違う(まあそれですらちょっとどうなんやと思うが)のにな……。なんにも考えられて作られた形跡が見えない。そらマスコミ志望する人減りますやん。

 

 でもこれはどうしろってことでもなく、僕はこう思っているということを残すためだけに書いています。思考整理ですね。

 

 それはそうと、タピオカミルクティーが飲みたいんですよ。あんなに馬鹿にしてたのに。大学前に5店も6店も出来ちゃうと、行きつけの店が出来てしまうんですわな。困った性分で、一度嵌るとやめられない。個人的に好きな店ははちみつ白玉タピオカをチーズフォームミルクティーに入れたやつを売っている店。値段もなかなかならカロリーもなかなかなので、さすがに度々というわけには行かないものの、ガチで美味い。この前も大学の行事帰りにスーツで寄ったくらいには好き。
 あのブームだってよくわかんないんですもんね。不思議。いとこが台湾に行ってきた帰りに乾燥タピオカらしきものを買ってきたんで親戚一同で飲んでたんですけど、こんなん前のタピオカブームじゃ考えられないじゃないですか。でね、祖母にも飲ませようということになってタピオカを煮てミルクティーの中に入れて、飲ませたんですけどね、祖母のすごいところは、「甘くておいしいわ」言うてミルクティーだけ飲み干して、タピオカが全部残ってたところですね。祖母はタピオカがなんたるかを知らないのではないか?

 でもね、もっとすごいのが神戸なんですよ。神戸にある三宮から元町までの駅の高架下なんか、今タピオカタピオカ服屋タピオカみたいな感じですからね。どこからそんなタピオカ屋が湧き出るのか分からないんですよね、これまた。しかもどの店も同じようなものを売っているけどちゃんと独自性を出して成り立っているのが摩訶不思議。レッドオーシャンですよ、ビジネス用語で言うなら。やべえな。生き残りのために使う本能ってこういうところで発揮されるんかーって思いました。

 

 俺だって野球観たい! とか、タピオカミルクティー飲みたい! みたいな今どきの大学生の感情しか持ち合わせていないものの、最近はそれに加えて麻雀を先輩から習おうとしているから腐れ大学生ですよ。大学の行事で泊まった部屋で普通に麻雀してましたからね。「プロは実力3割運7割じゃけど、素人(し_ろう↗と)は運10割だから理論を学ばんと勝ち続けられんよ」とか普通に同級生が言ってたけど、あれ見たときは明らかにヤのつく人を見た気分だった。おまけに用語が分からなかったんでカオスなんだわ。
 それで先輩に「この前のアレで麻雀やってたんすけどわかんなかったんすよー」って言ったら「んじゃ俺んとこ卓あるしやるか」ってなって、あれよあれよの間に麻雀講習会がセッティングされたのはいいんですが、好事魔多しっていうアレなのか、コロナが流行ってるから密室じゃできなくなっちゃって。まだ特に連絡はないんですけど、もうこれはアレですね。百万遍交差点にコタツ置いてそこでやるしかねぇべ、と(苦笑)。

 

 この記事どこに着地させるつもりで書いたか忘れちゃったな……まあいいや。このへんで寝ます。(2020.2.28)

高校バスケを見ました

  そういえば、最近高校バスケを見ました。男子の準々決勝の北陸-明成戦と、準決勝の福岡第一-東山・福岡大大濠-北陸、決勝の福岡第一-福岡大大濠だけだったのでほんの上澄みみたいなもんですけどね。今まで高校スポーツで見たのは高校野球がメインで、あとは高校サッカーくらいのもんだったんですが、フィジカルのぶつかり合いはやっぱワクワクしますね。個人的に感動したのは、北陸の米本・高橋が合わせて16本の3ポイントシュートをボンボン決めていった準々決勝ですかね。あれはビビった。あんなんいくら迫っていっても決まるんだから防ぎようがないよね……。

 あと、福岡対決になった決勝戦のあとの福岡第一のヘッドコーチが、メインコートで福岡大大濠と戦えたことに、自分の選手たちだけじゃなくて福岡大大濠の選手も労いながら感謝を伝えたのも、なんか、高校バスケならでは、な光景だなって気がした。バスケは能代工業が何年も連覇する時代があったくらい、強豪校は勝ち続けることが責務として課され、人々の期待を受けながら名選手を輩出していくというシステムのような形なのだが、とりわけ今年は福岡第一の年と言われ続けてきた中で、福岡第一を一番苦しめてきたもう一つの強豪校・福岡大大濠の存在があったことを、彼らはこれからも誇りに思うのだろう。凄いわ。

ドラえもん、サンドボックス説

 未来の時代からタケコプターやらもしもボックスやら持ってきてのび太に使わせるロボット狸とは、つまりドラえもんのことである。なんかよく分からないものを四次元ポケットから取り出すわけだが、そもそも出てきてる道具はちゃんと試験されてるものばかりなのか。もしもボックスとか、パラレルワールドに干渉するわけだから一定時間経ったら戻すとかしないとパラレルが進んで修復不可能になるバグとかありそうなもんだが、ドラえもんの持ってきたもしもボックスが持ちうるブレーキは「最初に言った『もしもの世界』とは逆を言う」しかないので、正直、欠陥品に近い。
 そこでドラえもんを捉え直すと、のび太を試験体とした未来の道具のサンドボックスとしてドラえもんが送り込まれたのではないか、という説だ。


 もちろん、未来から見た道具の一般的な改善というのも一つの理由になりうる。のび太は、道具を付加することで未来から見た過去の一般的な児童になるサンプルとして選ばれたと考えれば、自然とのび太が主人公である必然性が見えてくるのだ。のび太の家族は父、母、のび太核家族のび太本人には宿題を忘れる、テストの点数が低いといった学習に関する本人の自覚もある問題が存在する一方、あやとりのように得意なことはとことん得意な子供であるという一面も持つ。これは今なら割と個性として捉えられることも少なくない側面だ。道具を与えてその個性を伸ばしていくことが出来るという仮定に立てば、このドラえもんは一種の教育実験のツールとしても考えられていたことになる。であれば、ある程度のび太が育ったと考えればドラえもんが帰るのも当然だ。


 ただ、ここでドラえもんをツールとしてだけで捉えていると、問題が起こる。ドラえもん自身の変化を無視しているのだ。ドラえもんが過去に影響を及ぼすと、未来の世界にも影響が及んで矛盾が起こることは、これまでもパラドックスとして様々な文献などで指摘されてきた。だが、ドラえもん自身の変化がのび太や未来に与える影響、そもそもドラえもんはプログラミングされながらも意思の余裕を持つのかという問題につながる。「人工知能は心を持つのか?」だ。
 つまり、ドラえもんが道具のサンドボックスとしての機能を果たしている以上に、ドラえもん自身が実は人工知能の精神インストールの最終段階におけるサンドボックスだったのではないだろうか。もちろん、作者が生きていた時代にそんな概念を知っていたはずはなく、あくまで近未来としてのドラえもんと日本社会の象徴としてののび太を対比的に描いたに過ぎないのだが、こうして技術の時代である今を生きる私からは、多大な解釈を時代の進展によって可能にした珍しい作品のように捉えうるのだ。また、教育に関しても非常に進歩的な子供を描きながら、一方では旧態依然のいじめっ子がいたりして、と、日本の子供社会におけるリアルに似た感覚を覚えさせる点も非常に末恐ろしい。

where you are

 fhánaのライブを見に行った。

 12月22日、舞浜アンフィシアター、「where you are tour 2019 <divine>」。初めてホールでfhánaの音楽を聴いた。正直、そこに着くまで心配なことはいくつもあったし、自分がこの曲に自分なりの意味を見出すことが出来るのかとすら思っていた。

 「where you are」。

 初めてこの曲を聴いたとき、まず「魂のこもった歌声だな」と思った。魂のこもってない歌声なんか、もちろん一つもないんだけど、でも前提として「僕を見つけて」という大きな曲があって、その前提を共有した上で対比的に聴かれることを想定していたのだな、というのは割と早めに気がついた。その上で、これは何かモードに入ったんだな、という感覚だった。

 

 「僕を見つけて」は、ライブのMCでも度々「レクイエム」と言うくらいの、いわば喪失の曲である。かなりパーソナルな世界観でもある。というのは、fhánaのリーダー・佐藤純一の愛猫であるポンちゃんが今年はじめに亡くなったことを受けて*1、「喪失」というテーマを選んでいる。それとともに、タイアップ先のアニメのテーマでもあり、僕を見つけてほしいという「自己承認欲求」との絡み合いもありながら一つの曲にした経緯があるので、個人的な心情の共有を見せた曲なのである。

 で、それを軸に置いて「where you are」はそのアニメの挿入歌として作られた。作詞はボーカルのtowanaで、MCではあくまでアニメに寄り添って書いたことを強調している。「僕を見つけて」の歌詞は主体的で、「君」が「僕」を見つけてくれたことに感謝しながらも「僕」は旅立つ、というメッセージがある一方で、「where you are」はあくまで「君」を主軸として、でもやっぱり別れについて歌っている曲である。

 で、さらに文脈的には「きみは帰る場所」という、これまた別のアニメ*2の主題歌としてGothic×Luckに提供した一曲が重なってくる。こちらは離別について歌ってはいるのだけれど、どちらかというと歌詞のニュアンスは「帰れる」というポジティブな意味合いが強い。


 三曲を取り巻く環境は、純粋にアニメの中の意味、またはfhánaの中でのパーソナルな世界観であった、はずだったんだけど。

 京都アニメーション放火事件はやっぱり大きな意味を持ってしまった。本当はどこであっても痛ましいことなんか起きてほしいわけがない。特にfhánaにしてみたら、メンバー、とりわけ佐藤さんの憧れであり、「小林さんちのメイドラゴン」で念願の主題歌を担当したこともあり、とても強い思いを抱いていた存在が半ば消失し、それがこの曲の「喪失」という意味合いを皮肉にも強めてしまった。

 作り手が考えるそれ以上の意味を持つことに、どこまでクリエイターは覚悟を持っているのだろう。

 

 ところで、失ったものを取り戻すことは、自分の中で誰かを思い起こすことでしか出来ない。それは空想と言われるかもしれないが、作品の中で絶対に再会することが出来る。それはライブのMCでも佐藤さんが「居なくなった人に触れることは出来ないが、音楽の中で対話することは出来る」といったことと共通している。
 AI美空ひばりというプロジェクトがあるが、あれは過去を再構成することで過去の言葉を想起させる試みであり、失ったものの真正性を取り戻すものでは決してないのだが、でも、していることは失われた人々が作り出した作品の中でその人々に「会う」ことと似ているような気がする。それは巡礼なんだろうという気はする。

  そんな文脈の中で、「あなたの居場所がわからなくても、僕の居場所がわからなくても、私はこの場所であなたのことを思っている」というtowanaの言葉は、物理的に行けない向こう側ではなく、この場所・この地点で相手のことを思うことなんだろう。考え方はなんというか、亡くなったアーティストの後追い自殺の真逆というか、だからあなたはそこにいてほしい、と言ってるんだと思う。俺はライブで「where you are」を聴いたその瞬間に、今年あったいろんな別れがフラッシュバックして、俺の心はかき乱されてしまった。

 あなたはどこにいるのか。私のいる場所を見つけてほしい。

 世界が大なり小なり承認欲求で作られていることは、いよいよSNSが世界の常識となった頃から明白だった。そして動機は何であれ、自分の居場所を叫ぶことだけが私たちの思いを形にするのであった。ただしそれは生半可なものでは、誰にも、まして届けたい相手にも届かない。

 あるいは、届かない相手に向けてそれでも自分のいる場所を叫ばなくてはならないことだってある。それは不条理で、非合理的で、孤独な行為だが、それでも私達は今は消えた相手のことを考え続けてしまう。

 fhánaが歌った3曲、とりわけ「where you are」は、その行為に相当な根気とエネルギーが必要だということを覚悟した上で、それでも誰かのために強い言葉を選んだんだな、と思うものだった。それも、違う意味を持つ前からずっと。冒頭独唱もあった「divine intervention」だって、「僕は愛している/見つけたあの日から/そう君を」と歌っているし、「STORIES」も「もう届かない日々」「君に聴こえる?」と歌っている。届かないかも知れない、と思って歌うことは、なんと辛く、しかし尊きことなんだろう。

 

 記憶の中で別れた誰かに、あなたはどこにいて何を思っているのか。思いが強すぎて歌えなくてもおかしくなかったのに、それに潰されなかったfhánaのメンバー、あなた方は本当に強い。きっと、佐藤さんの言っていた「ゾーン」に入ってたんじゃないかって思う。

 それとは別に、fhánaは(特に佐藤さんは)「再会しよう」とか「また会おう」という言葉をよく口にする。それは、自分たちはやっぱりファンにとっては帰る場所であってほしいという思いであるとともに、「あなたの居場所がわからなくても、僕の居場所がわからなくても、私はこの場所であなたのことを思っている」からこそ、来てくれると信じているから、また会おう! と言い切れるのではないかとすら、純粋に自分は思ってしまうのだ。fhánaのメンバーも、ファンにも、戻るべき日常があるから、その場所から離れるために、そんな言葉を放つ。

 でも、そういうことを言えるのも、ずっと会えると思ってるからなんだよなあ。会えるうちに、会いたい人には会いたい。会いに行きたい人がいることは、会いに行けない苦しさにいつか変わっていくんだろうけども、でもまた会えると思わなくちゃ日常はやっていけないんだなと。そんな脆い仮の思想に満ちている離別の世界を歌っているfhánaは本当に凄い。

*1:歌詞にも「孤独だった野良猫のように」と出てくる

*2:けものフレンズ2」なんですが、ちょっと見てないので詳しい内容には触れません

noteを再開/リニューアルしました

 タイトルのとおりです。これからはnoteを中心に、ごく個人的なことをこっちに書くかもしれないし、こっちは使わなくなるかもしれませんが。

note.mu

note.mu

 メディア論を中心に書きます。よろしくお願いします。

1/10も野球を知らない人がダイス野球的なゲームを考えてみる

 地鶏さんは最近、UD新ゴを導入したらしい。

◆◆◆

 私は阪神タイガースのファンである。何がそうさせたかはわからないが、多分にアンチ巨人である父の影響を受けていることは間違いない。私が生まれてまもなく20年というところ、わずか2回の優勝にとどまる阪神猛虎軍において、今年はその中でも一、二を争うレベルで打てないチームだと思っていたら菅野から10得点も奪っていて何が何だか分からないことになっている。

 と、ここまで私が阪神ファンであることを語ってきたが、実はわたしはあまり野球の細かいルールがわからない。ストライクゾーンの定義もあやふやな私にとっては、何が「決まった」球なのかさっぱりである(なのに野球について書いてるのでどうにもアレだが)。

 そんな野球音痴な自分が深夜のテンションで「サイコロ野球」的なゲームを作った。軽くルールを説明する。

  • 0~9までの数字が書かれたサイコロを2個用意する。そういうサイコロはあまりご家庭にはないものなので、クトゥルフTRPGダイスで代用していただきたい*1
  • 最初に振ったほうを投手、2回めに振ったほうを打者とする。
  • 表を参照し、当てはまるマスの通りに試合を進める。「二次判定」とあれば、二次判定表に進んで1回だけサイコロを振り、あてはまる数字のマスに書かれた指示に従う。「三次判定」も同じ。
  • 表には1~9までの数字しか書かれていない。0がどちらかで出たときはボールの判定になる。00で揃ったらボークで進塁。ただし走者がいない場合はボール扱いとなる。
  • また、打者の1はバントだが、基本的に走者がいない場合は一度だけ振り直してもよい。走者がいる場合は振り直してはいけない。
  • 打者は走者が塁にいるとき、何も言わずにダイスを1回だけ振ることで盗塁を仕掛けることができ、2~5が出たときに成功する。ただし、ヒットエンドランで盗塁が失敗したときは併殺判定する。
  • 外野フライで走者がタッチアップしたいときは、打者は「タッチアップ」と宣言してダイスを1回だけ振る。1~3,6が出たときに成功する。4,5が出たときは戻れず併殺になる。
  • 併殺打のマスを引いたときは、ダイスを1回だけ振る。1~4,6が出たときは併殺成功。5が出たときは打者をアウトとして走者を残した状態でプレーを再開する。
  • ハーフスイング(半振)を引いたときは、ダイスを1回だけ振る。1~3はスイングの判定、4~6はノットスイングでボールの判定になる。
  • 失策判定のマスについては説明が面倒なので、ダイスを1回だけ振ってそのマスの指示に従うこと。

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基本ルールその1

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基本ルールその2

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基本ルールその3

 「お前このルールはおかしいやろ!」とかあったら言ってください。

*1:友達がクトゥルフTRPG好きらしいので一応ここで宣伝しておく