持続可能なメディア構造とは?
昨日の夜からの大雨と、今朝のオウム真理教関連の死刑執行のニュースと、それらに付随する特番編成でどうにも寝不足です。
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メディアの具体的な分析は他の人に任せて、メディアの全体構造を俯瞰してみるというのがこのブログの大まかな方針なので、ここで現在のマスメディアの構造を概観し、その構造の持続可能性について論じ、最終的に持続可能なメディア構造とはなんなのかについて記してみたい。
今回は、「制作者」「視聴者」「企業」の面でこれを論じる。
制作者
インターネットが中心化している状況において、それ以前のマスメディアの中心としてテレビを挙げるのは不自然ではない。インターネットが出る以前においては情報が最速で、かつ詳細な映像・音声があったためである。視聴者側においてはこれは強みではあったが、取材対象においてはメディアによる二次被害が起こるケースも多数見受けられた。有名なケースとしては、松本サリン事件における河野義行さんが警察の悪質な捜査に加えてメディアの取材による二次被害を受けた事例がある。そのため、メディアが歓迎されない構図をも生み出してしまった。*1
インターネット登場を境目にメディア文化を区切ることは、決して珍しくない。放送法も2005年の改正検討時、CSという通信用衛星からの放送とインターネット上の映像配信サービスとを同じ扱いとして、従来のテレビ放送(ここでは「特別メディアサービス」とされた)と対比し「一般メディアサービス」と分類する提言があった*2 *3。
このような流れの中で、特にテレビには2010年代以降、速報性と詳細性をインターネットと同じほどに強化し、インターネットを利用しない世代に情報源としてよりフィットさせる動きと、それに付随して従来の取材源のほかに「外部情報」を利用する動きが現れてきた。
主婦層や高齢者の視聴が多い午前中や昼下がり~夕方にかけてのワイドショー戦争は過去最大のものとなっている。こうしたワイドショーは、①新聞・週刊誌という「外部ソース」からの情報、②視聴者投稿の利用、③従来の取材で成り立っており、番組の制作にはほとんど③で成り立っていたときよりも(主に権利関係や情報収集、さらに番組の放送時間の拡大などによって)遙かに多くの人員を要することは容易に想像できる*4。これは果たして、このまま持続可能なメディア構造と呼べるのだろうか。
この不健全な環境に関連してなのか、2018年は放送界において多くのアクシデントが発生している。ここでは天災ではなく人災に基づく重大なもののみを列記していく。
- 1月15日にはテレビ朝日が「ワイド!スクランブル」で音声トラブル、翌16日にNHKで報道局の担当者によるJアラートの誤送信
- 同29日に先述「ワイド!スクランブル」で30代ADが日本相撲協会の承諾が必要な書類を使い回しして作成したことが発覚
- 2月19日にMBS毎日放送「ちちんぷいぷい」で写真の取り違え
- 同21日にBPO(番組倫理・番組向上機構)の放送人権委員会がCBC中部日本放送の「イッポウ」で放送された杉原千畝特集で「本人の筆跡」としたものが異なっていると指摘
- 5月7日に仙台放送の記者が不法侵入の疑いで書類送検
- 同16日には2015年2月にテレビ朝日のプロデューサーが過労死していたことが判明
- これに関連して6月30日には在京キー局5社が違法な残業や賃金未払いを理由として2013~2017年で計9回の是正勧告を受けていたことも判明
このようなアクシデントは、これまで以上に激しい競争に晒されるテレビ局が拙い手段で競争に対抗しようとして労働状況を顧みていないのではないのだろうか。これでは、持続可能どころか、数年すればアクシデントが増加することは間違いないといえる。
視聴者
ここまでは制作者側において持続可能なメディア構造を考えてきたが、視聴者側が情報に混乱することがないようなインフラとしてのメディア構造も考えていく。
インターネット時代を情報の洪水と表現することも多くあるが、情報の洪水において視聴者は情報を取捨選択できるようになり、また一方ではそうせざるを得なくなった。テレビはその意味では一方向的で多面的――重要な情報はニュースバリューによってテレビの側から選択され、しかしその見方はチャンネルという文化的フィルターによって多様性を生むこともある――だ。また、従来のマスメディアでは新聞も一方向的で多面的、ニュースバリューもあらかじめ設定されるが、ネットに近い面として、情報量の多さとある程度の選択の自由・時間軸の自由が利くところがある。
対して、インターネットは多方向的で多面的だがある一定のルールによれば収斂されやすい――重要な情報は個人個人が選択し、チャンネルとは異なる独自の単位において多様性を育むが、その単位に直接誘導されることもしばしばある――。発信のみでは成り立たず、拡散と消化も含めたサイクルが前提になるために、拡散と消化の過程で一部の意見に誘導されることも考慮される。
このようなメディアの特徴を捉えながら、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということも付け加えておく必要がある。テレビは先に述べたように、もはやテレビ局の取材だけで成り立っているわけではないし、新聞もインターネットサイトで記事を掲載している。インターネットは、既存のメディアの力を借りながら、時には否定しながら成長している。
つまり、視聴者は一貫したプラットフォームで情報を見渡すことよりも、様々なメディアで情報を得るか、それが面倒で情報を最低限得るようになるかの二択になっているという現象が起きている。これを解消するには、多様な情報を一括して整理できるプラットフォームが必要なのだが、金銭/権利などを考えたときに、一番普及している情報インフラがスマートフォンであることを考えたときに、軸がインターネットとなることは想定されうるだろう。
企業
最後に、再び制作者側に戻り、「発信者」としてではなく、「企業」として持続可能かどうかについて考える。
朝日新聞社は2018年度3月期の売上高は3,984万円で、前年度比-2.9%だった*5。朝日新聞社の事業セグメントには「メディア・コンテンツ」「不動産」「その他」の3つがあるが、このうち「メディア・コンテンツ」の割合が22.1%なのに対して、「不動産」が72.1%と圧倒的である。もはや、メディア企業はメディア・コンテンツだけでは成り立たない。
在京キー局ではどうだろうか。2018年3月期決算で見ると*6、リオデジャネイロオリンピックがあった前期より広告収入が減少した一方で、メディアコンテンツ以外のイベント・物販・不動産で増収を確保した。特筆すべきは、「動画配信サービス」や「ライセンス収入」という、メディアコンテンツの範囲拡張が起こっていることである。これは先にも述べたが、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということの象徴である。
メディア企業がメディアを主にしているのに、副業でしか稼げない――この事実は、確かにメディアとして持続可能だがその構造は「延命」されているだけではないのか、という疑問を湧き上がらせる。
まとめ
今回は、制作者・視聴者・企業の3つの視点から「持続可能なメディア構造」とは何なのか、という問いの入り口に立つまでを考えてみた。まだまだ問いは深くて長いものである。こうすればメディアはいつまでも正しく生きていけるという解決策は、一つとしてない。現実と理想、信頼と冷静、対立する概念同士が積み上がった上でメディアは初めて存在を持ち、ある物事の間に介入を許されて、物事を伝えるのである。だから、概念的には、先に挙げた3つの視点の前に、「メディアという存在」を徹底的に再考する必要があるかもしれない。