風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

Twitterと「苛烈な文章、誠実な文章」

 コメンテーター・ナビゲーターのショーン・マクアードル川上氏の経歴詐称疑惑で、彼が涙ながらに謝罪してから2日ほど経過した。

 彼の仕事ぶりはメディア関係の周りの人々に好評だった。ちゃんとデータを揃え、論理立てをして発言をこなしていた。それは事実であり、彼もそこに至るまでの努力を怠らなかっただろう。それを持ってしても彼を擁護するつもりはないし、そんな資格が僕にあるわけではない(何様だ、って感じになっちゃうからね)。その代わりに、批判もしない。
 そんな今回の一件でとてもとても気になったのが、このように誠実な発言をする人は確かに支持されるが、それ以上に(米大統領選候補のトランプ氏もそうだが)「白黒付けたがり、物事をはっきりいう人」の発言はより支持されるということだ。

 後者の場合、シチュエーションによりその真価が発揮される時がある。一つはリーダーシップ。もう一つはバラエティやトーク、討論などの会話場面だ。人と関わり合い本気でぶつけあうときは、煩わしい注釈など要らない。また、物事を先頭に立って考え指揮するときは、多少強引でも白黒つけないと前には進めない。こういう時、苛烈でも方向性を持っている人は、曲がりなりにも(たとえ方向性が間違っていたとしても)自分の真を曲げないくらいの精神力は持っていると思う。
 さらに、そういった人たちは得てしてトークが上手い。好きなモノは好きというし、嫌いなものは嫌いというこの誠実さを構えて人に向き合うわけで、そこを判断するためには自然と観察していないと話せない。つまり、辛口の人は結構観察眼が強いのである。辛口で知られる(僕はそんなことないと思うけど)マツコ・デラックスさんや有吉弘行さんなんかは、観察眼と根性で生き残ってきた人たちだろう。無論、そういった人たちは精神力も強い。

 しかし、そんな人達が何かを受動的に受け止めるとなると、話は別になる。観察眼が鋭いはずだが、物事の主張を軸とするときに、言い切りたいという気持ちが勝つこともあり、大まかに主張をぼかしてしまいがちである。
 そういった行為は、主張よりも証拠を重視する考えの揚げ足取りの格好の餌食になるわけで、確実に反論も増えることになるだろう(たとえ主張に正しい部分があったとしても、だ)。さらに、証拠が揃っていないわけだから、それを見た視聴者・読者に不信感やわかりにくさを与えるものだと、元来なっていたはずだった。

 しかし、現実はそう伴っていない。一刀両断型の人の文章ばかりが「よくぞ言ってくれた!」と囃し立てられているのだ。
 僕はこの変化は、テキストベースのメディア、つまりSNSの普及によって生み出されたものだと感じる。さらに詳しく厳密に言えば、「Twitter」の登場によるものなんじゃないかと思う。
 私事で恐縮だが、私もTwitterのアカウントでじゃんじゃんつぶやいている。体感的に、あの140字という文字制限は、日本人にとって恐ろしい程に魅力的だったフィールドだった。主張を短くまとめ上げるが得意な人ほど、いや140字に近づければ近づけるほどインパクトと内容の濃さは勝る。だが、そのスペースに証拠までは書ききれないのだ。逆に言えば、証拠を示さずともまともなことを言っているように見えるし、言外に証拠を察せ、とも受け取ることが出来る。Twitterはそれほどまでに自由度が高いメディアだった、というわけだ。

 現在は、Twitterでも昔のホームページと変わらない炎上が起きている一方で、情報の拡散も進む。情報の流れを止めることは、現実には不可能だ。その中で、言い切ることがどれほどに危険か。
 
そういった観点から、今見直すべきは、誠実な文章ではないのかと本気で思っている。感情論を載せただけでは意味が無い。データの改竄など論外である。とことん事実に基づいた事実だけを積み上げていった成果を、決して攻撃的でない言葉で少しずつ語りかけていくのが僕の目標であり、目指したいところである。
 
 この話は、辰濃 和男著「文章の書き方」(岩波新書)に記されている話を参考にした。

 

ブログ変更にあたって追記(2018/03/30)

 この文章は初代ブログに掲載された文章です。当時の人物の表記などそのまま掲載しております。

 言い切りの危険性はもちろんあるものの、アカデミックな世界では言い切らねば論説にならないという点を考慮できていないところに関しては考えが甘かったなあと振り返る次第です。