風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

寓話がTwitterで利用されるのはなぜか

 ツイッター上で「通りすがりに女子高生が正論を言った」ツイートは嘘っぱちだとするものが見かけられる。まあ大元は知らないが、そういう話が多くなってきたのは確かだ。
 自分の主張をわかりやすくするためにそういったシチュエーション、あるいは例えや寓話を使うことが流行りで、「これはこういうことが起きているのと一緒のことです」とまとめあげれば自分の主張を拡散する手助けになる。
 しかしそのような論法は本来あまりにも高度なものなのではないか。詭弁や論理の間違い、同じではないものを同一と見なす初歩的なミスを犯していたときには、どんな主張の説得力でも無に帰せられる。なのにそのようなハイリスクな論法を使いたがる「ツイッタラー」がいるのはなぜだろうか。そしてそれが大きく出回るのはどうしてだろうか。
 
 昔話・寓話は実在しえない話であるが、テーマには教育的な性格を持っている。教訓である。「三匹のこぶた」なら「一番頑丈だったレンガの家は建てるのが大変だ。でも藁や木で作ったほかのこぶたたちの家は潰れてしまったが、レンガは潰れなかった。だから努力はどんなに大変でも大切だ」とか、「北風と太陽」であれば「北風のように厳しい態度で人に接するより太陽のように暖かな気持ちで人に接せば相手も心を開いてくれる」とか。
 教訓を持つ話というのは、常にそれを作ったり演出した人の思想性を内包する。「三匹のこぶた」を作った人が努力家であるかどうかは知り得ないが、努力を大切にする人であったかもしれないというのはここでわかる。そして、いま先ほど取り上げたツイッターの人たちが目指しているのもこの教訓と思想に基づいた話ぶりと見える。「この人はこんなことを言っているからこういうことを伝えたくて、こういう人だってことなんだな」と一発で認識してもらえるので、わーわー喋るよりよっぽど効果的なのだ。
 しかし寓話とツイッター上での例えで違うのは、ツイッター上では事実を下敷きにして寓話や例えと重ね合わせる点だ。寓話は実在しえないから一般化でき、そうして思想性を帯びることができたが、現実は実在するうえ寓話のような簡単な構造ではできていないので、事実を寓話化した際には多面的に齟齬が起きうるのである。
 
 ところで、教訓を帯びた話も歴史を進むうえで風化したり、都合が悪ければ排除されたりするし、また教訓を帯びない話が教訓化することもある。後者の一例として、「浦島太郎」が教訓化したのは明治時代に結末が切られて「嘘はいけない」と教訓化されたからである。この話から見えるのは、寓話は後付けの教訓との相性がとてもいいということだ。ちょっと切ったり足したりするだけで教訓に沿う便利なストーリーである。
 そもそも寓話は虚構の世界であるから、現実の側から否定できない。しかし教訓は現実の側から織り込まれているもののはずなのに、無批判のまま人々に受け入れられる。まして後付けの教訓はどうだろうか。……だから、批判されず、それどころか「的を射ている」と賞賛されるまである例えで主張をぼかしていく。
 最初に取り上げた批判的なツイートは、そうした実情を撃ち抜いたものだったと思う。虚構を弄して現実の論理のまま仮想の話に逃げる安全手段として例えや寓話が使われているのであれば、「この人はそういう論理を使いこなせる人なのだろうか」と疑ってみても、僕は損はないと思う。
 わかりやすさに逃げてはいけない。わかりやすさの方へ逃げられてもダメだ。この言葉は切々と話さねば伝わらない。