風見鶏はどこを向く?

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期待と失望

 期待は人が抗うことのできない欲望であり、また人を傷つけうる暴力でもある。ときに追い風になり、ときに凶器にもなる。また時に期待しても無駄だと言って突き放すというか突き放せる人と、そうはいっても突き放せない人は、本当の失望なんてものもまた存在しない――本当の期待が存在しないように――と知っているかどうかの違いなのだ、とも思う。
 だから、毎年タイガースの優勝を応援したり、村上春樹ノーベル文学賞受賞を夢見たり、そういう小さくて大きな「期待」を心の中に誰でも持ちうるのだ。「決して何にも期待しない」という人でさえ、当然のような社会の仕組み、物や人の動きから完全に独立していないという点で、無意識に何かに期待している。スマートフォンが起動しなくなったら「何てことだ!」と思うのは、「当然のように起動してくれるだろう」という、厳しめに言えば慢心の中で生きていたからではないか、と言わざるを得ないし、そういうところで気づかされる期待はやはり誰からも切り離せないものだ。
 
 それでも、期待から完全に独立したくなる感情=失望を持ち合わせうるのは、「人の期待の重圧に押しつぶされたとき」と「重い期待外れを味わったとき」である。
 期待に押しつぶされそうになると、人は逃げる。正しい判断だ。稀にその重圧を跳ね返す強靭な精神力を持つ人もいるが、それはそういう訓練を受けてきた人々だからであり、たとえばそういったことをしていない僕のような人物が何か期待を受けたとすれば、確実に押しつぶされていくだろう。だから人は逃げる。
 すると逃げたあと、その巨大な「期待の車輪」は、転がしていたはずの期待していた人に跳ね返る。先に述べた「逃げるという判断」が正しい以上、これはある意味仕方のないことで、期待するとはこうしたリスクを覚悟してまでリターンを取ることなのだ。
 しかし、いつしか当然になってリスクを考えなくなったり、それに鈍感になる――それは何度も裏切られたから――と、「期待を無いものとして日常を過ごすこと」が彼らの真実となる。それは二度と傷つかないための自己防衛であり、シェルターであり、順応行動である。最初こそ昔を思い出して辛くなることもあれど、ちゃんと慣れてくる。そういう風に人間はできている。
 それでさえ「この失望は破られない」という期待によって構成されているとも知らずに、何事もないように過ごしている。心を動かす何かはないのだと思っている。この誤解を、僕は「本当の失望など存在しない」と見なしている。
 
 本当に失望したとき何か別の物に期待を寄せるということは、やはり宗教的なものに終着する。平安時代の民衆は極楽浄土を求めるし、それなりに出家もする。ヨーロッパにキリスト教が、中東地域を中心にイスラム教が根付く。成立の起源はともかく、いま現在に絞って状況を見ると、宗教的事物と期待は密接に関係しているとわかる。
 何か信じるもの一つあればいいのだという、非常に脆いが強力な期待。この考えを先のように表現するならば、「本当の期待もまた存在しない」ということなのだ。
 本当の期待も失望も存在しないと気づくことで、初めて自分の足で立つ脚力を得ることができる。信じることで生きていけることは否定しないが、信じるだけでは生きてはいけない。「神聖な一つの色」ではなく、「信じて作り出した自分と誰かのいくつかの色」を使って人生は描き出されるのだ。
 実は、自立と信念のバランスを自分でわかったうえで、他人に期待し寄り掛からなければそんなことは出来ない。これは否定的なことではない。人は完全にわかり合えないので無理な話だと思ってもらえればいいが、期待の重さを誰と、もしくは何人で分け合えるだろう、と考えられる。期待や失望の質量は軽くはならないが、衝突し合ってその期待の正体を徐々に削り出して、生きやすくすることができる。
 気を付けなければいけないのは、その期待が集団内に反響することだ。「抗うことのできない欲望であり人を傷つけうる暴力」は「失望」という概念を理解しえないので、外に露出された際、思い通りにいかない現状に暴発しかねない。つまりエラーによる暴走だけには、目を光らせていてほしい。
 期待の結末は、必ず成功か失敗かで判明するものではなく、そんな消化不良にどんな色や形で意味を与えていくのか、つまりどう落とし前を付けていくのかという微妙なラインが、人を人たらせている重要な一線だ。