風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

報道、表現、他者

 今年の最後の最後に、メディアの人物が肝に銘じてはならない反例が出来てしまった。朝日新聞の記者へのインタビュー記事。端的に言えばいくらでも言いようはあろうが、それをしてしまうと同じ穴の狢であり、また反例を踏まえていないとみなされても仕方がない。インタビュー記事*1からいくらか文脈を乱さない程度に抜粋したい。
 
『(安倍政権の「人づくり革命」などのフレーズを例に挙げ)欺瞞を正面から突破するのは難しい。だから「なんかだ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとかして言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです』
『あらゆることを損得の基軸に落とし込もうとする安倍政治(注:ここまでで、安倍政権が提唱する『一億総活躍社会』について弱者を社会に包み込むのではなく動員する考えだど批判しての流れ)が、私は嫌い、というか、なんか悔しい。だからといって、言葉を強めて批判的な記事を書けば、読者に届くわけでもない』
 
 ここまでの流れで、「弱者を包むのではなく動員する安倍政治は醜い」という文脈を持ち、またもっと前では「でも私も堅い記事を書いていたけれどそれじゃ書き手の温度が伝わらない」という話もしていて、それを踏まえても妥当な展開なのか疑問符が付く。前者では「欺瞞を正面から突破するのは難しい」と書くが、その欺瞞であればそれについて事実をねちっこくねちっこく重ねあげ、かといってもちろんけっして論を作らず根拠に基づいて文にすることが記者の仕事で、その先はインターネットの普及で市民でも高い品質で出来ることだろう――あくまで「出来る」だけであり、実際にそのようなことが「なされている」とは若干思い難い――と思うし、逆にそのように回り込むことを使命にして感情をベースに話をするのは、彼女の安倍政権への批判や、また安倍政権を支持もしくは拒絶する一部の両極層の過激な主張と結局変わらないのではないかと思う。回りくどすぎるがゆえに話に隙がある。
 それと後者は、「弱者を社会に包み込む」ことについては定義を記して手厚く表現しているけど、じゃあ「動員」って何ですかというと、実は具体的な定義は文章から伝わってこない。一般常識と言われれば確かにそうなのだろうけど、もう「安倍政権」という現代史の中でも最新、細部の場所から見つめる際には、やはり「包摂」との対比としてわかりやすく言葉にするべきで、そういった細かい配慮の文体ではないのだなというのがわかる。
 なにより日刊ゲンダイによれば(ちなみに僕は朝日新聞の読者ではない)、高橋氏は『<『レッテル貼りだ』なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。堂々と貼りに行きましょう>とあおり、<『安倍政権は「こわい」』>と言い切る』。文中で比喩であっても煽っては台無し。それこそ日馬富士が後輩をマナーが悪かったからと言って殴ってしまったからあんな一大事になった、それと同じことだ。この指摘はトーンポリッシングなどではない、記者としての仕事を放棄しているからこその指摘なのだ。
 結局、彼女の文体は、怒りや呆れといった感情的――記事の中では『身体的』とか使われていた――な表現を用いようとするがあまり、本当に論を提示すべき相手についての冷静な分析が妨げられる恐れがある。本来衝突すべき怒りが、あろうことかその表現のまずさで、論理のまずさで、一切聞き入れられるはずもない。つまり、そのようなものは「レッテル貼りだ」「こわい」の一言で相手が聞き入れなければ(それももっともなことだと思ってしまいそうになる)、一瞬で壊れる貧弱な論だ。
 
 沖縄の問題についても、生活保護の問題についても、表現それ自体はとても巧みで悪く言えば奇も衒える人が、感情に訴えようとする。それはある程度までは確かに有効で、とくにSNS上では感情を誘導し論を通じて納得させる二つのプロセスが有効であれば絶対的な論旨拡散手段と言えよう。だが感情を誘導させることそれ自体が邪悪なもので、論旨に必要のないようなものだったらどうだろう。
 例になるかどうかは分からないが。街宣車が日本国旗を掲げて正月の京都を爆走しているのを見た数年前の僕は強烈に困惑した。街宣車は保守的な主張をするために走っているのに、それについて過激な主張手段や、日本に対しての歪んだ愛情*2を含むから逆に納得されづらい。歓迎できない。
 沖縄の問題について言えば、これは安倍政権よりも前の政権から持続しているテーマであり、だから彼らにとって言えば「日本国政府在日米軍の対応」に怒ることであり、それについての主張如何や僕の意見はともかく、そういうことにならないといけないだろうと思う。感情を絶対に排除できないことは分かっている。そこにある市民感情は島の世論形成や文化に大きな影響をもたらしているからだ。しかしながら、その感情を整理して伝えるのであれば感情の表現は「島民の発言」に収まるはずなのに、ミクロとマクロを取り違えて、つい話を大きくしてしまいがちである。一方でマクロ的に「日本国全体の防衛に必要だ」と言い過ぎて感情を無視するのもいかんせん良くない。これについては、「森を見て木を見ず」だろう。全体のために一部の社会が基礎ごと取り換えられるべきなのかということを感情抜きでは語れない。
 
 生活保護の問題についても、やはり「生活保護の不正受給は悪だ」と全体視するその裏に「実はそのパーセンテージは少なくて、ほんとに苦しい人が結構いる」という事実もまた裏返しにある。かといってじゃあ生活保護受給者が開き直るべきなのかと言えばそれはまた違っていて、社会がそのような人を包摂するためにもサポートを強化し受給者はそのサポートの下しっかりと立ち直っていく必要がある、と踏まえるのが自然だと考える。でも不正受給が際立つからといって「なめんなジャンパー」を作ってみたり、逆にサポートを受けてるのに、という人もいる。両者に交錯すべき怒りは確かに存在するのに、結局その批判は感情に基づいたもので何の意味もなさずに結局直接的に当事者間でしっかりとした対話が行われることもなく、怒りは怒りのまままた膨らんでいく。
 
 ときどき、話をする気があるのだろうかというような他者に出会う。どれだけ「やんのかコノヤロー」と言って論を突き付けても、「いやこれは違うでしょう、地に足付けて話しましょうよ」と言いながら他方では感情への誘導に余念がない。そんなことをしてるくらいなら、相手の発言を過不足なくポイントにまとめ上げ、その一つ一つそれごとに話を突き合わせて考えていく。討論からツイッター上の会話に至るまで、そのスピードは違えどこの過程が重要になってくる(ただし討論する人の頭の回転速度は速いけど結構さっきの例みたいな人もいる)。その時に「身体的な表現」を持ち込むと、本来思考プロセスには絶対に入れ込むべきでないものが混じる、つまり不純な論旨が出来上がる。不純だから、脆い。
 例の女性記者に話を戻すと、彼女の執筆動機は「安倍政権が悔しい」からと読むことができる。個人的な感情なら大いに結構だが、思考プロセスにそれが入り込むとかえって本当に政権に問題があったとしてもかえって見抜くこともできないし、誤認する可能性さえある。話をする気があるのだろうか。同じようなことを、漫才に仮託して結局回りくどい手段を取ったけど一ミリも笑えなかった(注:主観)ウーマンラッシュアワーの村本氏にも思ってしまった。「否定のための否定」をするつもりではないので簡潔に言うと、彼らは思考プロセスに使命みたいなものが入ってるもんだから、話をいくら聞いても同じにしか聞こえない。「こうしなくてはいけないんです、こうしたいんです!」の先がない、ある意味『こわい』身体的な表現だ。使命で感情に基づき事実を淡々と構築しても、使命と感情が先に来ている分、話のトーンや言葉の選択にそれらが現れやすいので、白けてしまうのだ。
 
ブログ変更にあたって追記(2018/03/30)
 一部文章を削除・表現の変更を行いました

*1:日刊ゲンダイ 『朝日新聞高橋純子氏 「安倍政権の気持ち悪さを伝えたい」 2017年12月25日付

*2:というか、少なくとも正月の京都の賑わいと静寂の中を街宣車が大手を上げて通行するのは、僕は真にそういった愛を持ち合わせてはいないのではないかと思う