風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

無力感

 この頃の耳たぶがちぎれそうなほどの寒さに自転車を漕いで最寄駅へ行くまでの十数分に、僕は物思いをめぐらしながら無力感に打ちひしがれている。そういうときは朝の静寂がとても好ましい、悟りに入ったような錯覚を起こせる。もうずっと前から脱力感を感じているけれど、朝の突発的かつ習慣的なえづきとともに学校に行くまでにはすっかりその日のことで頭がいっぱいになり、何を考えて悩んでいたかも忘れてしまう。あるいは休日なら、そうなる前に radiko をつけて朝を掻き消す。なるべく心を賑わせて現実逃避して、それから一日のやるべきことを淡々とこなして夜を使い果たしていく。
 
 不思議なことに、悩んでいたことは夜になると結構思い出せる。おとといは、フランス人の約8割が陰謀論を信じているらしい、というニュースを見て、どうしたって人の考えは他人の一押しじゃ変わんないよな、という無力感にさいなまれたし、その数日前は「世の中は結局多数派が見ているものに合わせながら平均値をとっているから、公平さが担保されないな」と思ってどうしようもねえなと吐き捨てたりして、結局こういうことを何年も続けているから偏屈な人間になってしまったんだなという自覚はある。結局は、自分も考慮のうちに入れては軽蔑することを繰り返したあの小さくて脆い複雑怪奇でどうしようもないコミュニティが、自分の中にどうしてもあって、あるいは見たいものやなりたいものだけ見続けて、袋小路で叫んでるだけなんじゃないかといつでも思っている。昔から泣き虫だったので、余計に無力感についてのアンテナが強い。
 
 そのうち本も全く読まなくなったりして、無学のままで思い込み続けて、何もできないとのたまう機械になってしまうようなことだけは避けたい。常識を思考システムに代入するだけならいくら論理関係の分からないコンピューターにも出来る(その常識の意味をコンピューターにも理解できるように噛み砕いた場合に限るが)。しかし現実は、自分がもぬけの殻であることを自分で気づかないように心の中をにぎやかにするような、例えるなら深夜営業の駅前の個人経営の居酒屋が朝までドンチャン騒ぎ、って感じの心情を思い浮かべるだけだったりする。それでも朝になればまた店は閉まり、あんなにいた客はまためいめいの仕事なんかに出かけて行って誰もいない――このふいに訪れる静寂こそが僕にはとても恐ろしい。
 
 そんな時に思い出せるいくつかの思い出と、いくらかの苦みと、ほんの少しの音楽が傍にあれば違うのかなと思ったことがある。しかしこのセットが役に立つのは大抵は上り調子の時だけだ。思い出でさえもだいたいは、ほんの些細な自分の戸惑いや取り違えで強烈な苦みに変わる。他には本や旅行も試した。一時的にはじわりといい雰囲気が漂うが、あくまで一時的な幻想であって、ぶり返す現実への処方箋にはなり得ない。そんな時にはじめて、世の中は上手な現実逃避によって回っているんだなあと気づいた。人の能力や心理は結局なんらかのことで失われる可能性があって、そのすべてを差し引いたらだれだって空集合なのに、抜け殻になること、もしくはそうなることを恐れないための心の機微を僕は学んでいないのだなと痛感した。
 思い出や苦み、能力や心理といったものはすべて何らかの不可抗力により失われる可能性がある。それは、他力の関与度の高低はあれど、「自分」とは与えられたものだからだ。自分で何かを決めたと思っていても、実は与えられておきながらそれに無意識であったとき、周囲の影響が拭いきれない。
 
 僕はあらゆる所属や心持ち、能力や友好関係からほんのひとときだけ放たれて、洟垂れのままで、見知らぬ街角で見知らぬ誰かと朝まで喋りたい。そうして朝になったら静寂に身を包む。結局あのひとも空集合に詰め込まれた経験と成果を持ち合わせた方だったんだなと思うそのひとときだけ、無力感を少し和らげられると思う。まあ、別に見知らぬ誰かでなくてもいい。「所属から離れた状態で」見知らぬ誰かとして、僕に叫んでほしいと思う。こっちも同じ、いやそれ以上の声量ないし熱量で叫び返すつもりでいる。だってあなたも、所属から離れたら僕にとっては空集合とほとんど同じ意味になるし、「あなた」というデータや心の自覚を失って空集合になるかもしれないから、こちらは概念として見知らぬあなたと喋りたい。
 そうして不安を叫びあって声と声でぶつかる、文と文でぶつかることで、身の回りの納得いかない不可抗力にも違った意味を持たせられる気がする。無力感はあるけど、べつに手をこまねいているわけではなくて、また新しい知見を開けたんだ、と思うことになるだろう。ゆるやかな繋がりからほどかれて、強固な対話だけが後々日常の違和感を消し去っていく。
 ……といったような、一方で熱く見え一方で穿って見えるこの考え方は、子供のころにいろいろ虐められたり暴力受けたりして、僕は集団の中のひとりではない、一対一だから安心して話せるんだ、という閉じこもった思想が形成されたころ同時に出来たものだ。この考え方を別の言葉で表せば「この目で見たものしか信じられない」ともいう。