風見鶏はどこを向く?

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非日常と日常の狭間から、ごきげんよう

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 ここのところ、非日常と日常の境目にあるふわふわとした雰囲気に自分の身が置かれているような気がしている。そもそも、「非日常」と「日常」は確かにぱっきりと分かれている空間があるのだけれど、その間にグラデーションが存在していて、「日常」から「非日常」は急激だけれど、「非日常」から「日常」へのトランジションは緩やかで、ついその切り替えのグラデーションに酔いそうになるのである。

 先に「非日常」の話をしたい。僕にとっての日常である大学とバイトが消化された後、母校の文化祭に顔を出した。某タレントの出身校というつながりから最近は某芸能事務所に牛耳られ気味な我が母校だが、今年もどこぞの大学のごとく豪華な文化祭であった。アホみたいな雰囲気ですらある。もちろん、高校にいたときの文化祭は「日常」であったのだが、外から一部分としてではあるけれど客として文化祭を眺めたときの「非日常」を味わってしまったのである。ここからしばらくの浮遊感が始まってしまう。

 過去の「日常」を振り返ることは「非日常」なのか、それとも「日常」の平行線の続きなのか・・・・・・。文化祭の途中で部活の同級生に出会ってかなり話し込んだ。彼女らには僕の不手際で大きな迷惑を掛けたので、半分後ろめたい気持ちもあった。それでも近況トークは盛り上がったし、持ち込んだ差し入れはウケたし、なんだかヌルッと「日常」に潜りこんだ感じがしている。別れるときだってなぜかどこかで会える感じしかしなかった。これは、とてつもなく変な空気だ。よそよそしさを空気として介在させながらもそれを手なずけるコミュニケーション。久々にあった人々とはそんなコミュニケーションをしていたので、少し壁を感じかけていた。(まあ言うて悪い雰囲気じゃなかったけど)

 そんな空気を身にまといながら、日曜日はfhánaのライブに出かけた。朝は遅めに出かけて、モチベーションの低下を抑えようという目論見だったのだが、JR神戸線の遅延によってくたびれさせられた(そのほかにもいくつか面倒ごとがあったのだけれど、ここでは語り得ないことばっかり)。阪神に乗り換えた後に、「定期券の範囲で使えるじゃねーか」と自分の頭の悪さを呪ったりしたが、その頭の悪さのおかげでクソほどうまいつけ麺屋に行けたりしたので、その辺は運である。このあたりは「非日常」のオーラに上手いこともってかれた例、な気がする。

 ふぁなみりーの方々との挨拶や、会場脇の洒落たカフェでの小さな集まり、物販で高まったり、それで「非日常」の色は濃くなるばかり。そして始まったライブは、まさしく「非日常」の極みだった。これは公式でも呟かれているからネタバレじゃないと思うのだけれど、JUDY AND MARY「そばかす」と、小沢健二 feat.スチャダラパー今夜はブギー・バック(nice vocal)」をカバーしたのだ。特に「そばかす」のyuxukiさんの冒頭の暴れん坊ギターと、「今夜はブギー・バック」で佐藤さんが「Say! towana!」ってコールするとこっちがレスポンスで「towana!」って返す流れ、さらにkevinのラップのうまさが際立っていて楽しかった。そのほかの(セトリバレの怖い)fhána曲も、昨年のツアーに比べ洗練されパフォーマンスとして最高レベルに到達したエンターテイメント、もしくは美しい何かになった。これが「非日常」である。完璧なまでの「非日常」である。自分の体験を超えた何かを知らせてくれることを、僕は「非日常」と呼ぶのだろう。

 ふぁなみりー数名ほどで、ライブ後に打ち上げ的なものを行った。打ち上げのハイライトは「いち亀兄さんがとあるふぁなみりーカップルのことをご存じなくびっくりされていたこと」で確定。このあたりは「非日常」の名残を味わうためのトランジションだったのかもしれない。帰りはわりとギリギリになって、最寄り駅にちょうど24:00着となったので、なんとなく自分がシンデレラになったような感じがした――魔法が解けるように、「日常」に戻っていく。阪急梅田駅発の快速急行は実際路線的には定期券で毎日毎日通っているわけで、あー明日はこの小豆色の電車に朝から乗ってんのか、信じらんねえなあと思っていたものだ。それでも、「日常」に戻る覚悟は、fhánaのライブのコンセプトを体で感じたときから持っていた。

 だから、今朝こうして、突然(こちらから見て遠方を襲った)地震により「日常」ではなくなったけれど「非日常」でもないこの微妙な線上に立つ空間に戸惑いながら暮らしている。まさか、昨日訪れた場所が地震に襲われるなんて思っているわけもなく。休講になったあと何の気なしにつけたテレビには、昨日訪れた電車の駅の階段でまだ来ない電車を待つ人々や、乗り換えを間違えた時によく引き返す駅の表示板が傾いたり、「日常」だったものを吹き飛ばそうとするほどに衝撃的な映像が繰り返されていた。

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 現在もこうして地震による影響で断水などが行われていたりして、なにもかもが今夜心細く見える人がいるのかもしれないし、また、地震とは関係なしに、トランジションもなしに「日常」にたたきつけられた人がいるのかもしれない。もちろん、僕のように、なぜか「非日常」と「日常」の狭間に迷い込んだ人もいるだろう。

 しかし、音楽や文化、小説やリズムは、どのような人にも――決して身体的にとはいえないものの、精神的に平等に与えられ――そばに寄り添ってくれているのだなと、痛感している。それを、fhánaがツアーで一番いいたいことだと思っている。どのような「日常」にも、どのような感情をも引き受けうるクリエイターの精神と器量に乾杯、そして普通の「日常」の人々に賛辞を。誰にも、望めばいつかまた「非日常」の入り口が開くチャンスがある、と僕は感じた。

 なぜだかまとまらない文章になったのは、この数日間にまったく現実感がないのと、寝不足によるものだと思うのだけれど、いいオチも考えつかない。とりあえず、非日常と日常の狭間から、ごきげんよう