風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

ふぁぼされた分だけ好きなアルバムを紹介するやつ

 MBSラジオティルドーンミュージック」にfhánaが出ると聞いてタイムフリーの恩恵を受けつつ聞いていたんですけど、いいですね。この聴取者を鷲掴みにするのではなく、「来たい人だけ来て」というスタンス。「ハマればまさにカタルシス、お耳に合わなければ阿鼻叫喚」というキャッチフレーズ。アーティスト縛りも多いんですけど、結構ワンテーマでもやってくれるので、本当に気が向いた時に聞く感じですね。
 ちなみに(余談なんですけど)、MBSラジオのこの編成、ちょっと頭いいなと。ナイター中継が長引いたとき、クッション番組というものを置かないと番組が押した時に休止を余儀なくされるわけで。そんな中でこの番組を編成すると、番組がスライドしても二時間ほどなら無事。実質的なフィラー音楽(簡単に言うと埋め合わせ)としての役割を持ちつつ、視聴者参加の要素もある。実に賢いやり方です。
 余談終わり。
 さて、ツイッターで「ふぁぼされた分だけ好きなアルバムを紹介する」みたいなものをやったらそこそこあるので、9アルバムを厳選してお届けします。そもそも音楽はiPhoneに入れて聞く超のつくライトユーザーで、一応容量は64GBなんですがしょっちゅう整理整頓をしていて、アルバム全曲が残ることは少ないんですが、そんな中生き残ったものが今回のメインです。なお、fhánaは殿堂入りです。なので原則書きません。
 では早速。

 1.平原綾香「Winter Songbook」

 子供の頃から母親が平原綾香を聴いていたせいもあってか、すっかり歌声に魅了され、そこそこ聴いてるアーティストのひとりに。正直、オリジナルアルバムとカヴァー・アルバムで迷ったけど、技巧光るこのアルバムを選びました。
 古典的名曲「Auld Lang Syne ~ 蛍の光」、「Love Never Dies ~ 愛は死なず」をアルバムの最初と最後に配置し、その他にも「アルジャーノンに花束を ~Song of Baenadette」や「私のお気に入り ~My favorite things」などが大胆かつ繊細なアレンジと歌唱がなされています。ちなみに、ファンクの力強さをそのままに平原綾香の明るさを昇華させたという意味で、アルバム収録曲で唯一2000年台の「HAPPY」(ファレル・ウィリアムス)が一番のお気に入りです。

 2.米津玄師「YANKEE」

 何でか放送室にあって、そして掛ける曲がない時によく流していたのでいつのまにか覚えてしまったヤツです。昔は「パンダヒーロー」とか聴いてもビビッと来なかったけど、いまこうして米津玄師を知ってからそういった曲を聞くとまた違ったものを感じるので、人間の感性のアンテナの角度変化も不思議なものです。
 暗闇の中で疾走と奮起の熱情を感じる「リビングデッド・ユース」、東京メトロCMソングとしても起用された、切ない心のもどかしさの描写が秀逸「アイネクライネ」や「花に嵐」、カオスな「しとど晴天大迷惑」(僕はこのイメージを広義での「腐れ大学生感」と呼んでいる)、なんとも曖昧な時間を掴んで切り取ったような歌詞「眼福」。一見難解でメロディーに対しての言葉の密度が高いけれど、しっかり向き合うと「こんなにいいアルバムがあったのか……」となること必至。

 3.BURNOUT SYNDROMES「文學少女」

 BURNOUT SYNDROMESを知ったの自体が随分最近のことになるとはいえ、彼らの音楽性を全てぶつけてきた「檸檬」に衝撃を受け、ほぼ計画的衝動買い。そういえば、Vo.の熊谷さんって文学的な歌詞を書くのに理系っていう事実が伝わってきたときの衝撃といったら。ギャップ凄い。
 表題曲「文學少女」は、一サビ前とラスト前に文学作品のタイトルを勢い良く引用しながら強烈な印象を残しつつ、繊細だけど変化を伴って描かれる「文學少女」の姿が力強く描かれています。優しい炎がうちに宿っているとわかる、まさに瞬間、子を産んだ若き女性の少しの喜びと大きな決意を感じられる「こどものじかん」、死を選ぼうとしている学生の叙情的なことばが胸をつかむ「或るK大生の死」など、本当に陳腐な言葉で申し訳ないのだけど、名曲揃い。

 4.岡崎体育「BASIN TECHNO」

 色物とみられることも多いし実際歌詞でめっちゃ遊ぶけどええ人やし、サウンドは本気。あと歌詞も本気だすと心に沁みるもの、書きますね。
 中身はないけど曲は良い、それがこのアルバムの力であり、「岡崎体育への入り口」としての力をフルに発揮できる所以でもある。ただ曲の構成を説明するだけ「Explain」、ミュージックビデオあるある「MUSIC VIDEO」、歌ってる間に心の声が漏れ出す「Voice of Heart」。かと思えばハードな「スペツナズ」、憧れと今を自分に映し出す「エクレア」、とまた違った本領が発揮されたものも。

 5.高橋優「来し方行く末」

 光陰陽鬱併せ持った歌と声を作り上げるシンガーソングライター、高橋優。入門は「福笑い」からだったんですが、激しいエモーショナルな曲、高橋優の光と影をどちらも映し出す曲も戸惑いつつも受け入れていった感じです。
 このアルバムは陽にバロメータが振れている気がするんだけど、これはきっと大ヒットした「明日はきっといい日になる」に影響された所もあるんだろうか、と。たとえ影として対置されるような曲であっても、明るいほうへ歩く希望が感じられて好きです。「Cockroach」のように、その存在のネガティブさから想像できないほど踏み潰されても立ち上がる意地みたいなところを感じます。
 そんな力強さが日々に活力を与えてくれると信じて。

 6.山下達郎RIDE ON TIME

 俺が一番最初に行ったライブは山下達郎です。忘れもしない昨年1月の神戸。圧倒的なライブパフォーマンス、これが音楽に生きる人なんだ、と実感したステージでした。僕なんかファン見習いのまた見習いなんですが、間口は広くしかしどこまでも深き世界が彼の音楽には広がっているのかな、と。個人的にはこの前作である「MOONGLOW」が喉から手が出るほど欲しい。
 表題曲は言わずもがな山下達郎個人としてのビッグヒットを果たしていますが、これにはアルバムバージョンとして若干テンポの遅いものが収録されており、ボーナス・トラックとして収録されているシングルバージョンとの聴き比べも一興か。「いつか(SOMEDAY)」は聞くたびに、都市、街の生活を考える時、愛とは切り離せないものだと思う。この頃までに収録されている吉田美奈子の詞も達郎氏とは異なるエッセンスを感じる。

 7.Katy PerryTeenage Dream

 ここまでは実は結構理屈混じりで聴いて好きになったアルバムばかりだったが、このアルバムばかりはどうにも好きになった理由が分からない。いや、きっかけはある。「Fireworks」だ。華やかなサウンドとポジティブ性の固まりの歌詞、突き抜けるサビ。これに夢中になり、そしてアルバムを借りたけど、多様なバリエーションの曲に酔わされている最中というべきなんだろう。

 8.Q-MHzQ-MHz

 彼らの鮮烈な個性が滲み出た疾走感溢れるアルバム。「星の名は絶望」のギターの荒々しさに惚れるしか無かった。一曲一曲の主張が強いけど、特に「La Fiesta? Fiesta!」の不思議を覗く感覚はなかなか味わえない。各曲参加したアーティストの特性をフルに活かして、どういう音のバランスがいいかを徹底的に見つめたんだろうなあ。僕も「short hair EGOIST」の展開みたいに「ギターがここからバーンと入ってででっでっでっでで」と考えられる脳があったなら……

 9.秦基博「Evergreen」

 声、歌詞、メロディーの全てのバランスが優れている歌手といえば、で出てきた。ピアノを入れても弾き語りでも包み込まれるようでいて芯の通った歌は際立つ。中でも、オリジナルでは外的に盛り上がっていく自分にある闘志が、内側からふつふつ湧き上がるものになっていたアレンジに驚いた「Halation」と、一度は聞きたかった弾き語りでの「アイ」が特におすすめ。

ふぁなみりー再結集 難波の春・関西ふぁなサミ2

 それは再びやってきた。ふぁなみりーは集うのだ。悲しみの弔鐘はもう鳴り止んだんだ。俺たちは再び集いへと、その一歩を、踏み出すんだ。
 ……すみません、やってみたかっただけなんです。許して。
 今回は大阪・難波で開かれた「関西ふぁなみりーサミット2」(もち非公式)のレポをお届けします。先にイベントの説明をしますと、音楽ユニット・fhana(ふぁな)のファンが集まってわちゃわちゃするイベントです。非常に分かりやすいですね。
 前回記事(リンク)を読まれた方は分かるかもしれませんが、内輪ネタ注意。なお、今回は写真を……まぁ、入れられるなら入れてると思います(執筆中に考えるスタイル)。

別れ

 僕は別れ際に悲観的になるようでは、まるでなくしたものをまだ探している子供みたいでなんだか落ち着かないなと思ってしまう。それでも、僕はたまに心に一抹の寂しさを浮かべては、それを心の引き出しに入れてぐっと閉じ込め、かと思えばふとした時に眺めてみて懐かしさの幻影を追ってみる。そこに未来はない。分かっていてもすがることは、おそらく心を保つのに必要だと思う。人は未来に向かうが、身体は過去の積み重ねで出来ている。
 我が放送部の顧問の突然の旅立ちに戸惑ったのは僕だけではなかった。部員とは一年の経験の差みたいなものがある(同級生も去年入部してきた)が、それでも積み上げてきた信頼は大きく、それなりの心配と不安があった。うちの顧問は放送部経験者だ。そういうひとが顧問として放送部にいるのは相当珍しいケースだとも思う。幸い放送部とは顧問ありきではない所も多いのだが、そうは言ったって事務的にはかなり顧問方の力を借りることも多い。
 先生は云った。
「別れは悲しかったらアカンやんか」
 先生も不安だったろう。違う道に踏み出して、再びこういった現場に帰ってくるとはいえ、違う環境に交わる恐怖みたいなものが誰にでもあると思う。その恐怖とどう向き合っていくか、それこそが別れの現場の本質だと思う。背中を向けてドアを閉めるとき、既に決意は固めていたい。
 僕はもうあと数ヶ月でこの居場所を去り、そして一年で巣立つ。
 そういえば、以前ある有名講師の方がこんなことを言っていた。「自分の居場所を壊さないといけない時がある」。うろ覚えの格言はまたも心に響くが、言うは易し行うは難し。恩師の別れとともに実感する一言だ。

1月17日

▼北海道から帰ってきた。大体スキーしたり飯食ったり演劇見たり。概ね楽しかった。独断専行型の人間とも割と仲良くやれることを悟った。と同時に、人格が心配になってきた。あと、天候に恵まれ、寒波こそ厳しかったが、極限の寒さは滞在期間中だけで言えばこちらと同じレベルだった。
▼最近は、マスコミの暗部を見て眠り込んだり、かと思えばテレビやラジオを一つの指標で評価してしまう性を疎ましく思ったりしながら生きている。一種「マスゴミ」と言われて久しい業界にある業界気質とも思えるのだが、長いこと放送ファン見習いをしていると、やはり泣きたくなるほど一つの指標しか見えていない、見られていない、これは業界もファンも視聴者も疲れるし疲れたんだろうな、と思える出来事が多すぎる。
 例えば視聴率。本来僕たちは、僕の認識不足でなければ、囚われることはない。放送局のスポンサーに対しての資料の性質が強いからだ。が、今のネットニュースは、視聴率がどうだこうだと騒ぎ立てる。これは、僕のフォロワーが言っていたことだったのだが、視聴率に対して番組を評価すること自体が放送ファンまで広がるといよいよ悲哀である。
 テレビ局自体を一面的に評価しないことを考えて何かを見ることの大事さが再発見されている。指標を見つめすぎなければ、良さが発見されて自然と人が集まってくるものである。視聴率は、ゴシップネタや下衆いネットトークネタではなく、製作者のモチベーションアップに使ってほしい。
▼きょうは阪神淡路大震災から22年だ。マスコミの災害報道のすべてはここを曲がり角にさらなる変革を迎えるのだが、取材方法にしっかりとした変化はあったのか。技術だけではない。その地に臨む覚悟は? 心を鬼にして問うと何かが見えてくる。
 今は、ネットを通して現場との距離は近くなった。とはいえ、現場を目の当たりにする人は必ずいる。現場との距離の近さと、人々との心理的距離・人々の心理的圧迫感をごっちゃにしては、そこにある困難が見えてこない。先日の大雪報道でも、大雪の情報が伝わった反面、報道された場所のキャンセルが相次いだと批判するツイートもあった。これは言いすぎと思うにしても、生死の境目としてもグレーゾーンにある災害報道には、より細心の注意を払っていってほしい。
 そういえば、少し架空放送局という趣味を嗜んでいた(いる)が、やはり災害報道には「自分たちがする危うさ」が見えてくるような気がして、あまり報道していない。速報報道ほどデマが広がりやすいのが、ネットで行う情報発信の弱さだ。架空放送局というWeb上にあって形を持たないメディアには危うすぎる。
▼伝わらない擦れ合いが今日も起きている。疲れっぱなしの雪道でずっと思っていたことでも、こうやって帰って文章にするとぼけてくるものである。
▼今、後ろで母が未だにスマスマの最終回を見ている。悲哀はつきまとう。一瞬でも気を緩めたら泣きそうな顔で母が見つめた画面。テレビ界の大きな岐路のひとつになるのだろう。そして歩みを止めない僕たちは、批評し続けてしまうのだろう。SMAPという大きな存在は、これから先、何十年も固められたかのように語られていく。あの日のメランコリックは僕らをどこまで縛り続けるのか?それともこれより大きな悲しみが僕らを襲うのか?疑念の海、波は寄せては返す。
▼話はガラッと変わって、修学旅行から帰ってきて、いくつか、いや大量にCDを借りてAppleロスレスリッピングした。そんな容量はかさばらない気がしている。なんてったって、無圧縮(WAV)のサイズから50%オフだもんな。それでいて耳で聞く限りでは中島みゆき女史(蔑む意図はないぞ)の声が伸び伸びしている。天井まで届きそうに楽しく歌ってる感じ。やったね!
 もちろん、この方式は向き不向きある。まぁ嵐の曲でギターメインならMP3で十分だと思ったし、他にも色々あると思う。
 とりあえず、中島みゆき桑田佳祐とfhanaを聴いて寝るのが一番だ。安心感が半端じゃない。ロックからバラードまで安心の取扱い。

進化の一年と「青空」 ~fhanaの次の一手

 先日、僕の好きなアーティスト・fhanaの新曲「青空のラプソディ」が発表された。
 僕のfhana愛はこんな記事あんな記事、そしてこんな記事(これなんてわからない人のほうが多い)で参照していただければわかると思うが、本当にこのアーティストには驚かされる。常に新たな発見があり、かといって気張らず気楽に聞くことのできる間口の広さが、アニソンを主体に活動しつつもそれ以外のフィールドにもファンを獲得する秘訣なのではないだろうか。
 そんな彼らの新曲なのであるが、今日は彼らの代表曲にして名曲の「星屑のインターリュード」との対比を感じつつ、先日初解禁されたワンコーラスに注目して備忘録を記していきたい。
 タイトルからして、「青空」と「星屑」では真反対のポジションにある。曲調も一方はクラップ山盛りはっちゃけたメロディー、もう一方はストリングスをふんだんに使いポップだけど切ないメロディー。違うアニメではあるが、オープニングとエンディングというポジションの違いもある。fhanaのこれまでの進化とこれからの普遍性を感じる対比である。
つまりはらしくないようで
 でも今じゃとびら開けてほら
 声が聞こえるよさあ 行こうどこへでも)」
 この曲は、9thシングル「Calling」で「羽を休め」て、この曲で飛び立つ、そしてリスナーを飛び立たせる一曲として位置していると思う。前曲から間がないままにで再生したらムードの差に卒倒しそうだけど、これでいいしこれがいい。
僕は君の翼に なれる勇気があるよ
 どんな試練も怖くない その魔法があるから
 初めて出会う世界に 花束を贈ろう ただその瞬間結ばれるの
 fhanaの曲では久しぶり?にホーンの音が入った明るい曲調でBPMも早い一曲。yuxuki waga(Guitar)曰く最高難易度。この一曲のカロリー消費の高さとライブの盛り上がりは凄いんだろうなぁ。
 この曲も含め、ほぼすべての曲でハイトーンに次ぐハイトーンをクリアしていったのが、towana(Vocal)だ。
 今年に入ってから、思えば彼女だけでなくfhana全体としてチャレンジ続きだったのではないだろうか?「虹を編めたら」では2サビ終わりの、
闇の中見つけたよほら君ずっとそこにいた
 どこにもね混じれずに僕ならきっと君救えるよ
 その手ほら差し伸べて今からずっと遠い世界に飛び立っていこう おいでよ)」
は本当にハイトーンを容赦なくふんだんに使っているほか、towanaと佐藤純一(Keyboard)のダブルボーカルによりデュエットの強力さを見事に支えきった。
 「What a Wonderful World Line」の新曲は全七曲で、スケジュール的にもかなりの難易度だったという。後のインタビュー(リスアニ!TV)でも「ギリギリセーフだった」「タッチの差だった」とスケジュールを振り返りつつも、towanaの「瞬発力が鍛えられた」と素晴らしい一言。初の英詩曲「Relief」はあまりの自然さから、ふぁなみりーのみならず、その中のオーディオクラスタ「ふぁなーでぃお」では相性確認に良いと評判だ。
 「Calling」は少ない音数でいかに魅力的に見せるかが工夫された作品、とみた。テイルズとの雰囲気ともマッチして、非常に荘厳ながらも優しい雰囲気を持つ曲になった。
 そしてfhanaはこの曲で、また一歩進む。
 アニメの主題歌として曲を作りつつも、曲間にあるストーリーは非常に壮麗に紡がれている。fhanaが考え続ける「世界線」は見事に観客を楽しませている。創作における理想だ。
 fhanaの次の一年に期待である(しかし来年って僕は受験生である)。

「ショートショート=漫才」?

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 ▲M-1グランプリ2016。僕は和牛がスパイス効いてて好きでした
 
 創作においては、特に小説においてはいくつかの種類に細分化されるものである。短いものであればTwitterのツイートの文字数である140字から2000~8000文字程度の掌編、もしくはショートショート。もしくは大抵8万字くらいが一般にみられるような、長編小説。ネットの場合では、連載という形が創作小説の流通モデルとして一般である。
 今回はその中でも前者について、「ショートショートとは漫才である」という持論を展開していきたい。その前に、ショートショートについて見ていくとき、さらに一次創作と二次創作で分けて考えていきたいと思う。

貫かれるワンテーマ

 大前提として共有されているのは、少ない文字数の制限からテーマの一貫性が強いというあたりである。まぁ、当たり前でもある。最初に書いていることと結末が関連付けられなければ、その文字数の制約内では相当奇天烈で読みづらいという印象を与えることになりかねない。
 一次創作のショートショートで真っ先に思いつくのは、やはり星新一である。登場人物のシンボル化、読み進めていけばわかる不気味さと、隠れている未来への皮肉(未来を予見していたのかどうか、それは神のみぞ知る)。読んだ人に突き刺さる印象的なものだ。その彼でさえ、テーマの一貫性は逆説であれど貫かれている。「白い服の男」では「戦争と平和」を、それ自体は多くも語らないものの、問題提起してみせた(ととることができる)。
 二次創作のショートショートは、主にネット創作界で発展していったものである。創作サイト「Pixiv」では盛んにアニメなどの二次創作の文章が投稿され、そして気軽にそれを閲覧することができる。その小説の根底にあるのは、大抵「キャラクター愛」か「カップリング愛」か「作品愛」のどれかに当てはまるのではないか。だとすれば、ワンテーマで掘り進めていくことはとても二次創作では効率がいいことだろう。どれかの愛を深める・伝えるための要素を設定してやって、ストーリー立てして書く。必然的にテーマは貫かれるということだ。
 このようなテーマの一貫性は、制限時間の限られた漫才においても特色になっている。漫才もまた脱線・ボケはあれどワンテーマの貫通が用いられ、それが守られることによって安定した笑いが生まれる。無計画的なネタが短期間で息切れしやすいというのは実はよく言われていることなのかもしれない。いいネタはしっかりとした構造に支えられているものなのだ。

機転がスパイス

 ワンテーマ貫通が漫才にもショートショートにも用いられているとともに、「準備されたとっさの機転」がスパイスを効かせているのもまた共通する特徴だ。いいカレーには香辛料がいい具合に使われているように*1、いい小説、いい漫才にはいいスパイスが効いている。それは小道具かもしれない。漫才で言うボケ、小説内での危機の重ね撃ちや伏線かもしれない。よく見ればそれは最初からしっかりと準備されて、そしてそれは観客に種明かしされているではないか。
 そういえば、一次創作に限って言うと、作家は本当に芽の出る人数は限られている。そして漫才師も賞レースで輝かぬ限りは、また芽が出ることはない。彼らの人生に於いてまで類似性が認められるとはなんという偶然なんだろうか。どんなに強烈な光を放っていても、輝けるのはわずかな数。創作は彼らの人生を切り取ることもあるのだろうか。ぜひそうなら読んでみたい。

*1:レトルトは知らん!

「まっすぐ息を吸って。」 ~現役放送部員の目から

 いま、一部の放送部員の間で小学館裏サンデー」で連載されている竹内じゅんや氏のWEB漫画「まっすぐ息を吸って。」が物議を醸している。
 この漫画は現在5話まで連載されている放送部を舞台にした漫画で、なんとNHKの協力の下描かれているという。にも関わらず、「実態と乖離している」という批判や、後述する方向性の違いが様々な不満をもたらしているというわけだ。
 別にこの文章がそれらの現象を一歩引いた視点でまとめて、記録にしようというものではない。なにせ僕も放送部員である(全国の皆さんには程遠いものであるが)ので、そこから目を離すというのは無理なことである。なので、作品考としてこの文章を記すことにしようと思う。ここまでお膳立てされた作品が起こした「不満」なんて、珍しすぎるからだ。
 
 先に結論を言うと、あの作品には「現場への敬意」が欠けていたように思う。学校によって環境は違えど、「外郎売*1についての説明をあのコマ数で終わらせてはならないと思うし、省略された事項が多すぎる。さらに言えば、WEB漫画の特性を活かした扉絵が、青春マンガとはベクトルの違う「お色気」であったことも不満を増大させている一因だ。
 もちろん、「現場への敬意」を書きすぎると、エンターテイメント作品として成立しづらくなるのも確かだ。自主制作映画によくある「裏側」を書きすぎた感じとでも言えばいいのか(それを貶しているわけではない)。それは「現場からの敬意」は得られても「観客からの敬意」を得られにくいのだろうなと思う。
 前々からこの作品を批判的な目で見ていた方がいたのも事実だが、僕は少し期待して見ていた。放送部というのは実にフィクション化しづらい。どのようにこの「放送部」という切り口で物を見ていくんだろう。そんなことを思っていた。
 
 裏切られたとは思っていないが、ハイカロリーな作風で、到底部活のストイック感は出ていないな、と率直に思った。そりゃ暗すぎるのもどうかと思うが、とりあえず作者には明暗のバランスの取れた朝井リョウ「チア男子!!」を読めと言いたくなるような甘い作品だった。
 それから、読者層の一致ができていないとも感じた。先程述べた扉絵である。部活モノである以上、見るのは若い世代であろうのに、確実に大人のノリで作ってる。それも「現場への敬意」がないと思う一つだ。
 ちなみに「番組がない!読みも番組も」という指摘は(作中の設備からしたらあってもおかしくなさ気だけど)まぁ原則論として当てはまりづらいかなというのも正直なところだと思う。
 自分はこの漫画に理想を押し付けていたところがあるかもしれない。放送部の表現は一筋縄ではいかないという認識を持たなければ、この漫画を疑ってかからなかった。この部活動は人文学的な読解が求められる故か、冴えたツイートをする放送部員がたくさんいる。そして番組制作の経験でしっかりと構成を見据える目を持っている放送部員もたくさんいる。皆、持っている知識も目的意識も違うけど、厳しく物を見据えている。
 舐めてはいけない。
 あるツイートからは、その作家がNHK杯(スケートの文字列じゃないです。初めてみた方は放送部の全国大会と思っていただければOKです)の決勝に来ていたことを本当に恨めしく思っているという怒りも見えた。もちろんその怒りが正しいのかどうかすらわからない。確実に言えるのは、「観客からの敬意」は「現場からの敬意」と比例しているということなのだ。
 
 ぜひ皆さんにお願いしたいのは、この漫画について騒ぎすぎないでほしい。今やネットの影響力は強い。これはいわば傍らに忘れ去られるべき話でもあり、しかし強烈に爪痕を残す話でもあると思う。「現場への敬意」は何においてもお願いしたいところ。僕達もまた、違う場所への「現場への敬意」を忘れてはいけないのではないだろうか。
 
 ブログ変更にあたって追記(2018/03/30)
 この記事は自分の過去の記事を一部削除した上で、当時の記述をそのままにして前ブログから移行したものです。よって大学生である私は現在、タイトルのような「現役放送部員」ではありません。ご了承ください。

*1:外郎売……二代目市川團十郎の上演した歌舞伎の口上。日本では発声練習や滑舌練習として放送部員のみならずプロにおいても練習として用いられている。