風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

1月17日

▼北海道から帰ってきた。大体スキーしたり飯食ったり演劇見たり。概ね楽しかった。独断専行型の人間とも割と仲良くやれることを悟った。と同時に、人格が心配になってきた。あと、天候に恵まれ、寒波こそ厳しかったが、極限の寒さは滞在期間中だけで言えばこちらと同じレベルだった。
▼最近は、マスコミの暗部を見て眠り込んだり、かと思えばテレビやラジオを一つの指標で評価してしまう性を疎ましく思ったりしながら生きている。一種「マスゴミ」と言われて久しい業界にある業界気質とも思えるのだが、長いこと放送ファン見習いをしていると、やはり泣きたくなるほど一つの指標しか見えていない、見られていない、これは業界もファンも視聴者も疲れるし疲れたんだろうな、と思える出来事が多すぎる。
 例えば視聴率。本来僕たちは、僕の認識不足でなければ、囚われることはない。放送局のスポンサーに対しての資料の性質が強いからだ。が、今のネットニュースは、視聴率がどうだこうだと騒ぎ立てる。これは、僕のフォロワーが言っていたことだったのだが、視聴率に対して番組を評価すること自体が放送ファンまで広がるといよいよ悲哀である。
 テレビ局自体を一面的に評価しないことを考えて何かを見ることの大事さが再発見されている。指標を見つめすぎなければ、良さが発見されて自然と人が集まってくるものである。視聴率は、ゴシップネタや下衆いネットトークネタではなく、製作者のモチベーションアップに使ってほしい。
▼きょうは阪神淡路大震災から22年だ。マスコミの災害報道のすべてはここを曲がり角にさらなる変革を迎えるのだが、取材方法にしっかりとした変化はあったのか。技術だけではない。その地に臨む覚悟は? 心を鬼にして問うと何かが見えてくる。
 今は、ネットを通して現場との距離は近くなった。とはいえ、現場を目の当たりにする人は必ずいる。現場との距離の近さと、人々との心理的距離・人々の心理的圧迫感をごっちゃにしては、そこにある困難が見えてこない。先日の大雪報道でも、大雪の情報が伝わった反面、報道された場所のキャンセルが相次いだと批判するツイートもあった。これは言いすぎと思うにしても、生死の境目としてもグレーゾーンにある災害報道には、より細心の注意を払っていってほしい。
 そういえば、少し架空放送局という趣味を嗜んでいた(いる)が、やはり災害報道には「自分たちがする危うさ」が見えてくるような気がして、あまり報道していない。速報報道ほどデマが広がりやすいのが、ネットで行う情報発信の弱さだ。架空放送局というWeb上にあって形を持たないメディアには危うすぎる。
▼伝わらない擦れ合いが今日も起きている。疲れっぱなしの雪道でずっと思っていたことでも、こうやって帰って文章にするとぼけてくるものである。
▼今、後ろで母が未だにスマスマの最終回を見ている。悲哀はつきまとう。一瞬でも気を緩めたら泣きそうな顔で母が見つめた画面。テレビ界の大きな岐路のひとつになるのだろう。そして歩みを止めない僕たちは、批評し続けてしまうのだろう。SMAPという大きな存在は、これから先、何十年も固められたかのように語られていく。あの日のメランコリックは僕らをどこまで縛り続けるのか?それともこれより大きな悲しみが僕らを襲うのか?疑念の海、波は寄せては返す。
▼話はガラッと変わって、修学旅行から帰ってきて、いくつか、いや大量にCDを借りてAppleロスレスリッピングした。そんな容量はかさばらない気がしている。なんてったって、無圧縮(WAV)のサイズから50%オフだもんな。それでいて耳で聞く限りでは中島みゆき女史(蔑む意図はないぞ)の声が伸び伸びしている。天井まで届きそうに楽しく歌ってる感じ。やったね!
 もちろん、この方式は向き不向きある。まぁ嵐の曲でギターメインならMP3で十分だと思ったし、他にも色々あると思う。
 とりあえず、中島みゆき桑田佳祐とfhanaを聴いて寝るのが一番だ。安心感が半端じゃない。ロックからバラードまで安心の取扱い。