近況報告祭り2019春
私はお喋りなのでドチャクソ自分のツイートを補足説明していくよ。完全に自己陶酔してるね。ダメなパターンだ。
まずはこれ。
サヨナラボークとサイン盗みが関連してただけに、あまりいい話とは言えないな
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 28, 2019
この話に関しては、この記事を読んでもらわないとちょっと理解できないと思う。
高校野球史上最も悲劇的で最も有名な結末の一つ、サヨナラボークについて、当事者でありプロ野球選手として現役マスクの西武・上本選手が語っている記事。なるほどと頷かされる点が多いが、この記事を読むとわかることがある。
98年夏の時点でサイン盗みというのはあまり規制されていなかった面がある。そうした戦いの中でサイン盗みを防ごうとすると、どうしても複雑なサインに変更しなくてはいけなくなるし、そうなるとどうしても投手の負担が大きくなる……。
目先の勝ちのためにサイン盗みをすることも問題だが、それ以上に、サイン盗みがバレたときに報復のサイン盗みを決められて味方投手に重荷を負わせてしまわないか。センバツという投手の舞台だからこそ起こったことだが、投手に圧を掛けるにも限度があるのではないかと思った次第。
そしてそれを律するルールがないのも問題というか。どうしてそんなに良心に頼ろうとするのか。少年野球からこういうの教えられて高校野球に来てたりするんだぞ。そんなん良心で抑えられるわけないだろバカ。
というか、少年野球から高校野球という流れにおいて、まったく「野球」そのものから逸脱するスポーツになっていやしないか。高校野球強豪校の「スカウト」もわけわからんし。ああいう流れが続いたら、アマチュアスポーツ全体がダメになる……かもしれない。
熱くなりすぎた。次の話。
同じ震源で不安に思うのなら今のうちになんか準備しとけば?不安に思ってても起こってからじゃ遅いのよ
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 27, 2019
これは確かその高校野球の中継を見てたときに日向灘で震度4を観測する地震があったときにつぶやいたアレ。同じ日の午前中にも同じ震源域で地震があって「どうしたどうした」って雰囲気があったけど。
大体、そうやって騒いでる暇があったら杞憂でもいいから準備しろよ。
屋外にいて準備できなきゃ仕方ないけど、前触れかもしれないことを見過ごして何も準備せずに地震が来るのを恐れるのはバカがやること。だいたい、前触れのない地震だってあるんだぞ。
だからって不安に思うことはない。ちゃんと対策すれば大丈夫。
次の話。
いい曲を世に出して、積極的にアピールして欲しいし、アニソン以外のタイアップもぜひ積極的に狙っていただきたいと個人的にはとても思ってる。テレビ関係者では結構fhánaのインスト使ってるとこ多いはずだし
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 26, 2019
まあ、あのレーベルはもう来歴からしてアニメに特化してるし、あんまり期待しない方がいいのかもしれないけど。ユニゾンとかLiSAは事務所が強いし、一般受けするタイアップも取れるから、そのへんは大変かもしれない。ということを書きたかったけどさすがにエゴサされて大変なことになりそうなので書かなかった。事務所の話を書くとしんどいから仕方ないね。
ワイドショーもニュースも猫も杓子もピンクピンクしやがって
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 24, 2019
なんでもピンクにすりゃあいいってもんじゃない。あれの始まりってたぶん「news every.」なんだろうけどねえ。ピンクは Kiss FM KOBEで十分なんですよ(忖度)
AviutlもPremiereも対応しきれなくなるか開発元が消えたら終わりなのは変わらないけど、前者は開発元がどっかいったのに気合いでつなぎ止めてるのでこのまま使うと突然弾かれかねないという
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 22, 2019
AEも勉強した方がやりたいことに繋がるんかもなあ
Aviutlは映像編集のフリーソフトのことです。開発元がどっかいっちゃって更新がなされておらず、スペック的にも次のOSに准ずるシステムが出たらレガシー化しかねない。かといって他のソフトはAviutlに追いつけてない。なにせあのソフト、AdobeのPremiereとAfterEffectsの機能を併せ持った化物だし……。私にはどうすればいいのか全くわかりません。
AM廃止したら困るところばっかりだからそういうところは局の判断で切らないと思うし、ひとえに局の判断なんだと思うのよね
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 22, 2019
今の地方局ってお金がとにかくない中でFM補完中継局(ワイドFM)の整備にもお金を使わなきゃいけなくて、さらに既存中継局の保守管理もしなくてはいけないという中で、必ずしもAM波での発信が公共性を有していないときについてはFM単独の放送を認めてもいいのではないかという僕のスタンスだけど、そもそもFMにしてやっていけるエリアが少ない。結構AM局もエリア広かったりするし。
Radikoでなんとかできるじゃん、という意見もあるけど、Radikoは(とくにラジオが威力を発揮する、災害時に聴くというシチュエーションでは)いくらか不向きどころか不的確な点がある。
Radikoはインターネット経由なのでスマホからアプリを開いて局を選ぶ必要があって、すぐ情報が必要なときに周波数を選ぶだけでいいアナログラジオには勝てないし、だいたいインターネット経由なのでサーバーがパンクする可能性がある(そういえば伊集院光が東日本大震災のときに、その件を理由として直接受信を推奨していたなあ)。あと、Radikoはスマホ経由なのでスマホのバッテリーに依存することになる。何日も電気が得られない状況では厳しいと言わざるを得ないかなあと。
16時台に手を出すと今度は15時台に手を出したくなる罠
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 22, 2019
大体の番組は16時台に拡大した後、落ち着かなくなって15時台に拡大したがる。逆に元から15時台にある番組は16時台に拡大したがらない。なんだよこの現象。
元はといえばやっぱり「news every.」が16時台に拡大したことじゃないか。なんなんだ日テレ。ミヤネ屋が何らかのアクシデントでなくなったら15時台まで行くんじゃないか。恐ろしすぎる。
・fhánaは「語り」、「物語の読み手」に徹してきたのでは
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 20, 2019
・Twitterというメディアが生み出した自分語りの世界
・語りが氾濫して、逆に寄り添われることを求めた
・寄り添うときは自分を消さないといけない
・fhánaは物語に寄り添いながらその物語を別の角度で語っている
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 20, 2019
・対話の重要性と、SNSから離れたコミュニティ
・SNS化するリアルの語り
語りはエゴの側面とドキュメントの側面を持っている
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 20, 2019
語りは対象者がいるけど、物語は不特定に向けられる
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 20, 2019
きょうはこの話がしたかった。fhánaについていろいろ感じるところを書いてきたりして、やっぱりfhánaは「ストーリーテラー」だなと思ったことから膨らんできちゃった話だからもう少しちゃんと書くつもりだけど、大まかな補足をここでしておきます。
平成も終わりという頃だけど、まさかその結末がインターネットの時代、SNSで言葉が氾濫する世相だとは誰も予想していなかったんじゃないか。というか、誰も言葉の海が出来るなんて思っていなかった節がある。
TwitterやLINEが出来る前のコミュニケーションメディアは、メールか掲示板であった。そうでなければ、オーラル・コミュニケーション(つまりリアルで会って話す言葉)であった。すべて誰かと対話することが前提にあったし、そこで交わされる言葉はすべて他者に向いていた。
一方で、Twitterが登場する前の日記的なメディアの代表格はブログだった。ブログは、他者との関わり合いを前提としていない。このブログだって、誰かに読んでもらいたいと思いながら書く必要はまったくないわけだ。すべての言葉が外に向いていたとは言えないのが、ブログというメディアだった。
それが、Twitterの登場で一変した。
Twitterは「独り言」のメディアだが、シンパシーを求めることもできるし、誰かとのコミュニケーションにも使用できる。もちろん鍵をかけて自ら閉じこもることもできるが、そんなことをする人は少数派だろう。
今まで誰かと交流するために使っていたメールや掲示板ほど固定的・閉鎖的なコミュニケーションではなく、また何かを語るために用いられていたブログのような一方向の語りはむしろ忌避されるようになった。
その代わりに、何かを軽やかに「語ること」がもてはやされたのではないか。実況中継のように細かい描写と即時的でありながら詳しい解説を用いることができるリアルタイム性、さらに描写過多になりすぎないような文字数制限も功を奏した。
他方、語りが氾濫したことで、誰もが語りたくなった。なんでもないことでも「語りたい」と思うようになった、「話したくなった」ではなく。
そして、特異点のような出来事では、語りたがりが放った言葉の塊が爆弾になる。
僕のツイートで恐縮だが、ちょっとこんなことを考えていた。
ゴジラの連続敬遠のときにTwitterがあったら明徳は次の試合で負ける云々どころじゃなかっただろうなあと思い、あのときにTwitterがなくてよかったと考えている。間違いなく熱が入りすぎるし
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 28, 2019
語りの氾濫は、ときに人を狂わせる。本来、語ることは対象者がいて成り立つはずなのに、その語りが過激化し不特定多数へとシンパシーを求めたがるとき、語りはすべてを打ち砕く。
そんなとき、一つの希望の光があるとすれば、それはリアルの世界のつながりに近い「しゃべり」だろうと思っている。無関係の他者が攻撃し合うことではなく、無関係から少しづつ気遣いあって生まれた関係で交わされる、何気ない語り。
シンパシーを求めたがることは、つまりどこか無意識のうちに自分が他者に寄り添われたいと思っていることだから、何気ない語りによって誰かの言葉に寄り添われることは不可能ではない。
ここまでの話はfhánaを絡めてない普遍的な話だと思うんだけど。付いてこれてるのか心配だけど、ここからfhánaの話を絡めますよ。
fhánaの曲の歌詞を解釈すると、結構主人公視点からの「語り」が多いんだけど、そのおかげでこちらから見ると「物語」に見えてくる形で書かれてるものが多い。だけど、時にこちらに寄り添ってくる。この不思議な感覚は聴いてるとわかるし、聴かないとわからないけど。
さっきまでの話は「語り合うことで寄り添い合える」という話だったけど、fhánaのような物語の名手は「物語で寄り添ってくれる」のが魅力だなと思うし、雄弁な語りたがりなんかよりも5000兆倍いいなって思うわけだ。その歌は確かに聴いてる人の根本的な問題を解決しないかもしれないけど、その問題を解決する前にくたばるほどしんどい思いをしてる人はそうやって物語を歌われたりすることで心の重荷がすっと消えていくんじゃないかなって、そう自分が痛感したから思うところはある。物語と自分の対話。誰かの語りと自分を対話させること。
で、fhánaの話に戻るけど、彼らは自分のことを歌ってる曲が少なくて(ないわけではないけどタイアップが多いから割合「語る曲」が多くなる)、どちらかというと本当に誰かの物語を語る純粋なストーリーテラーなんだなって気がする。それがまたいい。誰かに寄り添うときには、自分の立場を一旦消さないと寄り添えないから。
この話は終わり。やっぱちゃんとまとまらなかった。
ちちんぷいぷい、結構ほったらかしで自然消滅させるコーナーも多いかもしれないぞ
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 20, 2019
これはいけない。ちゃんと報告してくれないとせっかく見てくれてる人に不義理じゃないかって思う。番組内で報告して終わりってケースも多かったし。
LINEスタンプを買わないと返信にも困ることがわかった
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 17, 2019
みんなLINEスタンプ使うので返信に困るし、なんだかんだ言って個人的な連絡はLINEのほうが面白いってのはあるけど、その分距離が近いからコミュニケーションの苦手なワイは自滅。おほしんたろうさんのスタンプでも買うかな……
osmo pocket、レンタルがなくなったら買う
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 15, 2019
osmo pocket、毎日使うわけじゃないからやっぱり価格的に辛いし地味に買わない
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 15, 2019
地鶏お前どっちやねん、お前のせいで一回注文キャンセルして返金待ちやないか。どうしてくれんねん半月前の俺。
最後に衝撃画像(煽り)を見せてお別れ。
そういえば尾道で見た一番アクロバティックな看板です pic.twitter.com/9svzPoj8xc
— 播州地鶏 (@B_cearc) March 15, 2019