風見鶏はどこを向く?

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【没ネタ供養】イオンとイトーヨーカ堂 中四国の仁義なき戦い2018

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 今年使いたかったネタだったんですが、ちょっと公開する暇がないまま年を越しそうなので、ここで公開しちゃいます。どこかで動画にするかもしれませんが、とりあえずここで供養。この記事では「イオンとイトーヨーカ堂」についてお話しします。

 「イオンとイトーヨーカ堂」の戦い

 平成も終わろうとしている中で、現代日本にしぶとく生き残る全国展開のスーパーとして生き残る企業はおそらくどの業界地図を見ても「イオン」か「イトーヨーカ堂」ではないかと推測する。スーパー業界で昭和から平成にかけて栄華を誇ったダイエーは今やイオングループだし、各地方スーパーも前述した二社の意向に大きく影響されている。

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イトーヨーカ堂とイオンの勢力範囲



 しかし、だ。先ほど私は「全国展開のスーパー」と言ったが、真の意味でそれを述べるのであればそれはイオングループに限られそうだ。というのも、イトーヨーカ堂はもともとドミナント戦略*1を取っているためだ。その上、現在イトーヨーカ堂広島県以西に店舗を持たない。そのため、全国にまんべんなく店舗を展開するイオングループが事実上、現代日本では天下を統一したといえるのだ。

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でも、イオンの売上高は近年頭打ち

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イトーヨーカドーの売上高は低迷気味。セブン-イレブンに頼り切り?

 ところが、2社とも売り上げは頭打ち状態なのが明白で、新たな強化戦略を必要としている現状が見える。さらに売上高を次のグラフで比較してみる。

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売上高の差が約2兆円も開いている

 イトーヨーカ堂とイオンの2017年度の売上高は約2兆円という大きな差である。店舗の閉鎖や、衣料品が売れない*2という現在のスーパー業界全体の低迷の元凶を絵にしたような急落である。イトーヨーカ堂のほとんどの店舗の核は総合スーパーなので、食品だけではなく衣料品も売っている。筆者の肌感覚ではあるが、筆者の住む東播磨地域はイオン・イトーヨーカ堂ともに2階部分で衣料品を展開しているが、とくに平日昼頃~夕方はほとんど客足がみられないという有様である。専門店街にある衣料品店との競合もあり、なかなか苦戦を強いられている。

中四国の戦いは岡山で火蓋を切った

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イオンが進出しイトーヨーカ堂が逃げる図

 イトーヨーカ堂の勢いを抑制してしまったのは、中四国でのいままでの戦い方ではないかと筆者は注目している。イトーヨーカ堂はもともと広島より西に店舗を持たないが、岡山の天満屋ストアとの業務提携も交えることで現存する店舗周辺のシェアを岩のように守り切ろうとしていた。だが、イオンがその牙城に攻め込んできた際に為す術もなかったのが失敗だった。

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岡山の2社の主な商業施設の構図(~2014)

 岡山県にはもともとイトーヨーカ堂系の大型店舗が2つ存在していた。ひとつはイトーヨーカ堂岡山店、もうひとつはアリオ倉敷である。一方、イオンは元からイオンモール倉敷を持っていた。

 しかし2014年冬、岡山の商圏生態系に大変革が起こる。岡山駅前の林原工場跡地をイオンが買収し、「イオンモール岡山」を誕生させたのだ。

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岡山の2社の主な商業施設の構図(2014冬から2015)

 するとイトーヨーカ堂はイオンに苦しめられることになり、結果的に岡山県からほとんど撤退という形を取らざるを得なくなった、ということだ。なお、アリオ倉敷は現在イトーヨーカ堂が行っていた食品スーパーのテナントを提携している天満屋ストアに引き継ぎ、現在も営業している。

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岡山の2社の主な商業施設の構図(イオン岡山開業後)

イオンのさらなる攻勢 地方スーパーを吸収・統合し巨大化

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イオンは地方の中堅スーパーを次々に取り込んでいく

 さらにイオンは攻勢を止めない。中四国地域では2011年に香川や岡山で多くの店舗を持つマルナカを傘下に収めたしたことを皮切りに、山口のレッドキャベツを2014年にグループ入りさせている。このような地方スーパーの吸収・傘下入りをさせる戦略は西日本で多く行われている。
 スーパーをこのような形で傘下に取るというのは、前述したダイエーを傘下入りさせたときや、マイカル・ヤオハンを合併したときとは異なる部分を抱える。食品スーパーとして一定の地位を築いた「マックスバリュ」と、地域性を備え地盤がある中堅スーパーの二本立てで地方を早めに制し、首都圏や京阪神に狙いを定めたいというところがあるのではないだろうかと筆者は見ている。
 ちなみにイオンの食品スーパー「マックスバリュ」は全国で一つの会社が一括展開しているわけではなく、マックスバリュの事業子会社が地域ごとに存在している。近畿・中四国地域はマックスバリュ西日本が広島に本社を置いている。

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愛媛の有力スーパー・フジもついに手を結んだ

 イオンが地域を固めるには、それ相応の地盤を持ったスーパーを味方に付ける必要がある。そのために取ったのが、愛媛の有力スーパー・フジとの業務提携である。フジは愛媛県内最大のスーパーで、愛媛県松前町の大型ショッピングセンター「エミフルMASAKI」を開業するなどかなりイオンとも競合していたが、今年10月にまさかの資本提携

 その裏側には、イオンの戦略を揺るがす、ある「反撃」があった。

イオンの天敵・イズミが・・・・・・まさかの「反撃」

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ゆめタウン」などを運営する有力スーパー・イズミ

 今年4月、広島に本社を置き中四国・九州で勢力を固めるイズミが、イトーヨーカ堂を抱えるセブン&アイ・ホールディングスとの提携を発表した。

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 中四国ではセブン&アイ系店舗が岡山での閉店前でも3店舗と少なく、単体では不利な戦いを強いられていた。閉店後は広島県にある福山店が孤立することになり辛いシチュエーションに巻き込まれるイトーヨーカ堂と、運営するショッピングセンター「ゆめタウン」の周りに必ずイオンのショッピングセンターが建つほどイオンにライバル視されるイズミは、ドミナント戦略を取っていることや商圏が被らないことが決めてとなり、共存のために協力を決めたのだ。

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 これにより、福山市の「ポートタウン日生」にあるイトーヨーカ堂福山店は2019年春、イズミの経営で「ゆめタウン」化する。

 ところで、イズミは日本流通産業ニチリウ)に加盟しており、「くらしモア」ブランド商品の販売や共同仕入れを行っている。ニチリウにはオークワ・平和堂コープこうべ・ライフといった有力スーパーが多く所属しており、かつてはセブン&アイと提携するためにニチリウを脱退するというケースもあった。だが、今回のイズミに関しては、セブン&アイのPB商品「セブンプレミアム」の取り扱いは未定であるとしてニチリウ脱退は否定している。

 こうした状況に危機感を抱いたのは、先述した愛媛の中堅スーパーことフジである。実はイズミもフジも同じ広島の闇市出身で、もっと言えばフジはもともと広島にルーツを持つ企業である*3。そして、イオンに迫られている中で、本拠地の愛媛に店舗がないとはいえ業界4位のイズミが敵に回るということが衝撃的だったのか、結局はフジがイオンとの提携に舵を切ることになった。

まとめ

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まとめ

 結局、この構図は「地元の有力スーパーを身内に取り込み巨大化するイオンに、地元スーパーの独自性を維持しながら協力してイオンに対抗するイトーヨーカ堂」というものだった。1兆円規模のスーパー戦争は、果たして消費者のためになるのであろうか。

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 とくに、スーパー間の競合が激化することで、スーパー自体が少ない地域の店舗が巻き込まれて閉鎖される可能性が出てくる。過疎化率の高い中四国地域では死活問題といえそうだ。さらに、イオンやイトーヨーカ堂といった巨大企業との一体化のために地域性を失い、地方スーパーが無個性化するかもしれない。そうなれば、消費者はどのスーパーを選んでも同じではないかと思ってしまうのではないだろうか。

 何より、この「統合による巨大化」は、スーパーが抱える低迷の原因を根本的に解決できるものでは必ずしもない。これによって確かに仕入れの仕組みを変革する部分はあるが、各スーパーは消費の流れを激変させるファクターをもう少し持っておく必要がある。


 

*1:地域集中的に出店し、その地域のシェアを独占する戦略

*2:

blogos.com

*3:正確に言えば、その経営母体であるアスティ、現在の4℃ホールディングスがこれにあたる。ファッション系の方の4℃です。これほんと

今年の推し曲ベスト30 [2018] ~ベスト10じゃ入らない~

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 皆さんこんにちは。地獄の底から這い上がってきた気分ですが大晦日までバイト5連勤の地鶏です。今日は少し趣向を変えまして、今年聞いた曲の中から私がこれだ!と思ったものを書き連ねていくという、読み手にすれば誰得なんだと言いたくなるプログラムでお送りします。

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人間関係にホルマリン漬けにされる感覚

 全休だった金曜日にまで予定に埋め尽くされ、僕はただでさえ余白のない生活ペースを維持しなければならなくなった。

 生活の中で様々な人に会う。授業やサークルで、様々な友、ないしは先輩と会う。皆それぞれの良さがあり、それなりの知見を持っていて、話していて楽しい。楽しいけれど、どことなく違和感を抱くときがある。

 入学した当初はコミュニティを拡げることに必死だった。そしてそれに伴って出来た関係に満足するだけで十分だった。しかしそれも今では違って、その関係にむしろ雁字搦めになって身動きが取りにくくなっているような気もする。

 行きの電車は十三から同級生に会い、帰りの電車は殆どの学生が十三までにはいなくなる。そこからはいつも一人。そういうこともあって、十三が僕にとっては公私の境目になっている。つまり、そこを越えてしまうと途端に僕は形成されたコミュニティの意識を失って、むしろ昔のことを思い出してしまうのだ。

 コミュニティを作るのがうまくない人間にとっては、コミュニティを維持して意識することはとても難しい。中高の友達とは殆ど連絡を取っていない。ある程度なら仕方ないことなのかもしれないが、全く連絡を取らないのだから、やっぱり今の関係にホルマリン漬けにされてる証左だとしか思えない。

 ドツボに嵌る前に今の自分を見直せたらいいのだけど(、そんな時間はない)。

持続可能なメディア構造とは?

 昨日の夜からの大雨と、今朝のオウム真理教関連の死刑執行のニュースと、それらに付随する特番編成でどうにも寝不足です。

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 メディアの具体的な分析は他の人に任せて、メディアの全体構造を俯瞰してみるというのがこのブログの大まかな方針なので、ここで現在のマスメディアの構造を概観し、その構造の持続可能性について論じ、最終的に持続可能なメディア構造とはなんなのかについて記してみたい。

 今回は、「制作者」「視聴者」「企業」の面でこれを論じる。

 

制作者

 インターネットが中心化している状況において、それ以前のマスメディアの中心としてテレビを挙げるのは不自然ではない。インターネットが出る以前においては情報が最速で、かつ詳細な映像・音声があったためである。視聴者側においてはこれは強みではあったが、取材対象においてはメディアによる二次被害が起こるケースも多数見受けられた。有名なケースとしては、松本サリン事件における河野義行さんが警察の悪質な捜査に加えてメディアの取材による二次被害を受けた事例がある。そのため、メディアが歓迎されない構図をも生み出してしまった。*1

  インターネット登場を境目にメディア文化を区切ることは、決して珍しくない。放送法も2005年の改正検討時、CSという通信用衛星からの放送とインターネット上の映像配信サービスとを同じ扱いとして、従来のテレビ放送(ここでは「特別メディアサービス」とされた)と対比し「一般メディアサービス」と分類する提言があった*2 *3

 このような流れの中で、特にテレビには2010年代以降、速報性と詳細性をインターネットと同じほどに強化し、インターネットを利用しない世代に情報源としてよりフィットさせる動きと、それに付随して従来の取材源のほかに「外部情報」を利用する動きが現れてきた。

 主婦層や高齢者の視聴が多い午前中や昼下がり~夕方にかけてのワイドショー戦争は過去最大のものとなっている。こうしたワイドショーは、①新聞・週刊誌という「外部ソース」からの情報、②視聴者投稿の利用、③従来の取材で成り立っており、番組の制作にはほとんど③で成り立っていたときよりも(主に権利関係や情報収集、さらに番組の放送時間の拡大などによって)遙かに多くの人員を要することは容易に想像できる*4。これは果たして、このまま持続可能なメディア構造と呼べるのだろうか。

 この不健全な環境に関連してなのか、2018年は放送界において多くのアクシデントが発生している。ここでは天災ではなく人災に基づく重大なもののみを列記していく。

 このようなアクシデントは、これまで以上に激しい競争に晒されるテレビ局が拙い手段で競争に対抗しようとして労働状況を顧みていないのではないのだろうか。これでは、持続可能どころか、数年すればアクシデントが増加することは間違いないといえる。

視聴者

 ここまでは制作者側において持続可能なメディア構造を考えてきたが、視聴者側が情報に混乱することがないようなインフラとしてのメディア構造も考えていく。

 インターネット時代を情報の洪水と表現することも多くあるが、情報の洪水において視聴者は情報を取捨選択できるようになり、また一方ではそうせざるを得なくなった。テレビはその意味では一方向的で多面的――重要な情報はニュースバリューによってテレビの側から選択され、しかしその見方はチャンネルという文化的フィルターによって多様性を生むこともある――だ。また、従来のマスメディアでは新聞も一方向的で多面的、ニュースバリューもあらかじめ設定されるが、ネットに近い面として、情報量の多さとある程度の選択の自由・時間軸の自由が利くところがある。

 対して、インターネットは多方向的で多面的だがある一定のルールによれば収斂されやすい――重要な情報は個人個人が選択し、チャンネルとは異なる独自の単位において多様性を育むが、その単位に直接誘導されることもしばしばある――。発信のみでは成り立たず、拡散と消化も含めたサイクルが前提になるために、拡散と消化の過程で一部の意見に誘導されることも考慮される。

 このようなメディアの特徴を捉えながら、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということも付け加えておく必要がある。テレビは先に述べたように、もはやテレビ局の取材だけで成り立っているわけではないし、新聞もインターネットサイトで記事を掲載している。インターネットは、既存のメディアの力を借りながら、時には否定しながら成長している。

 つまり、視聴者は一貫したプラットフォームで情報を見渡すことよりも、様々なメディアで情報を得るか、それが面倒で情報を最低限得るようになるかの二択になっているという現象が起きている。これを解消するには、多様な情報を一括して整理できるプラットフォームが必要なのだが、金銭/権利などを考えたときに、一番普及している情報インフラがスマートフォンであることを考えたときに、軸がインターネットとなることは想定されうるだろう。

企業

 最後に、再び制作者側に戻り、「発信者」としてではなく、「企業」として持続可能かどうかについて考える。

 朝日新聞社は2018年度3月期の売上高は3,984万円で、前年度比-2.9%だった*5朝日新聞社の事業セグメントには「メディア・コンテンツ」「不動産」「その他」の3つがあるが、このうち「メディア・コンテンツ」の割合が22.1%なのに対して、「不動産」が72.1%と圧倒的である。もはや、メディア企業はメディア・コンテンツだけでは成り立たない。

 在京キー局ではどうだろうか。2018年3月期決算で見ると*6リオデジャネイロオリンピックがあった前期より広告収入が減少した一方で、メディアコンテンツ以外のイベント・物販・不動産で増収を確保した。特筆すべきは、「動画配信サービス」や「ライセンス収入」という、メディアコンテンツの範囲拡張が起こっていることである。これは先にも述べたが、どのメディアも単独のメディアでは成り立っていないということの象徴である。

 メディア企業がメディアを主にしているのに、副業でしか稼げない――この事実は、確かにメディアとして持続可能だがその構造は「延命」されているだけではないのか、という疑問を湧き上がらせる。

まとめ

 今回は、制作者・視聴者・企業の3つの視点から「持続可能なメディア構造」とは何なのか、という問いの入り口に立つまでを考えてみた。まだまだ問いは深くて長いものである。こうすればメディアはいつまでも正しく生きていけるという解決策は、一つとしてない。現実と理想、信頼と冷静、対立する概念同士が積み上がった上でメディアは初めて存在を持ち、ある物事の間に介入を許されて、物事を伝えるのである。だから、概念的には、先に挙げた3つの視点の前に、「メディアという存在」を徹底的に再考する必要があるかもしれない。

*1:

nikkan-spa.jp

*2:

www.itmedia.co.jp

*3:藤竹暁 編『図説 日本のメディア』p79 NHK出版,2012

*4:このような手法はテレビ朝日「やじうま新聞」開始後各局が主に朝の情報番組に活用してきた技術であって、特別なものではないのだが、これが各局の「ワイドショー戦争」に利用されたのは、新たな特徴と見ていいだろう

*5:

www.nippon-num.com

*6:

www.sankei.com

事件報道の経過を辿る ~新幹線襲撃事件から

 

 先日、このツイートを見た。事件報道を巡る現状に対して受ける印象は様々だが、このサイドからの意見は初めて見たような気がしたのだ。

 

 メディアの事件報道は、その強引な取材方法とまとめ方から昨今激しい批判に晒されている。社会から事件報道が求められていない、というのがしあわせな国の冗談に聞こえないほど。そんな中で、事件報道を求めている人が、いったい何を求めているのかを知りたいのだ、と私は漠然と考えていた。その最中のこのツイートは、非常に興味深く、多方面で話題を広げられそうであった。

 メディアの事件報道は、「被害者の外殻」を把握することで事件を知ろうとする。もちろん、その外殻は本人の心情ではなく社会的カテゴリーのことである。「オタク」や「会社員」は、そのようなカテゴリーのひとつだ。
しかし、その外殻とは社会的カテゴリーであるならば、それは社会が生み出したイメージである。そして、社会が社会の中で強化していったイメージでもある。これはどういうことかというと、あるひとつの事件報道が次の事件報道を行う時の対象へのイメージに連鎖してしまうことなのだ。
 人々だけでなく、メディアもイメージに縛られているのではないか。

 メディアは本当の心の中には入ることは不可能だろう。なぜなら人間一個人でさえ、対する一個人の気持ちをすべて理解できるとは思えないからだ。警察でさえ、容疑者の心理をすべて理解していくために証拠を揃えるわけではなく、事件のディテールを把握するために証拠を集めるのである。
 一方で公共性という観点に立つと、「事件がなぜ起きたか」というポイントと同等もしくはそれ以上に公共性が高いものとして、「事件を防ぐ・被害を減らす」ことがあるのだが、事件を防ぐには原因が必要であって、そこを報じないわけにはいかない。しかし、現在のメディアというのは、事件報道になると被害者と加害者双方の周辺を聞き込むこと・記者クラブで警察からの情報を得ることが原因報道の第一歩となっていて、しかもそこから踏み出せていない。実例を、平成30年6月9日の夜に起きた東海道新幹線殺傷事件の事件報道から見ていきたい。
 なお、ここから取り上げるのは、バックナンバー性の低いテレビではなく、バックナンバー性の高い新聞である。また、掲載に際して、被害者名・加害者名は伏せた形とし、プライバシーに配慮する。このあたりはご容赦いただきたい。

 事件の概要

 各紙が主に6月10日(事件発生の翌日)に掲載した概要は以下の通り。

 6月9日午後9時50分頃、「のぞみ265号」車内で刃物を持った男が乗客を殺傷。男性1人(名前伏せ)死亡・女性2人重傷。神奈川県警はこの刃物を持っていた自称無職の男(名前伏せ・22歳)を殺人未遂容疑で逮捕。男は「むしゃくしゃしてやった。誰でも良かった」と供述しており、署は無差別的な犯行とみている。各紙は過去に起きた類似事例として、2016年5月に起きた新幹線のぞみ内ガソリン燃焼による自死事件を取り上げている。

 各紙の報道 ~初動はどうだったか

 ここからは、朝日・毎日・読売・産経の各紙が報道した内容を見ていく。なお、11日朝刊はそろって朝刊は休刊だったため省略する。

 ◆朝日新聞10日朝刊(14版)

 1面では事件概要、被害状況、当時の現場の状況やいきさつ、事件当時の乗客の証言、Twitterに写真が挙げられていることの説明。また、先の類似事例を取り上げている。

 33面では、見出し=『騒然「逃げ場ない」』。乗客の証言で現場の惨状を伝える。また、JRの取り組みについて、「JR、手荷物検査は消極的」と。2001年の米国同時多発テロ事件を機に、車内のセキュリティを強化し、15年ののぞみ自死事件以後はカメラの増設や常時録画を行うことで抑止力としていた。しかし手荷物検査は利便性を失うと消極的。

 ◆毎日新聞10日朝刊(13版)

 1面は事件の概要のみ。不明部分が多く、今回比較した4紙では最も初動の情報が少なかった。

 ◆読売新聞10日朝刊(14版)

 1面では事件の概要と、警察が発表した動機についてと、新幹線の警備体制について。37面では車内の当時の写真と、乗客の証言、また先の類似事例について説明を行っている。

 ◆産経新聞10日朝刊(14版)

 1面は事件の概要と類似事例について。29面は見だし=『「助けて」後方車両に逃げ』。ネットの書き込みも取り上げる。

【分析】

 10日朝刊については、前夜に起きた事件とあって情報が不足した毎日新聞と、朝日・読売・産経の各紙の情報量の差が激しいものだった。事件発生から24時間が経過していないために、動機についての報道はまだ進展しておらず、むしろ事件を具体的な事象として捉え対策の検証を取る態度がほとんどである。

 各紙の報道 ~時間経過は報道にどのような影響をもたらしたか

 日曜日は夕刊が発刊されない。また先も述べたが、11日朝刊は休刊日だった*1ために、次に取り上げるのは11日夕刊である。この時点で、事件発生から1日半ほど経過をしており、この時間がどのように報道に影響しているのかを分析したい。

 ◆朝日新聞11日夕刊(4版)

 事件概要、現場の状況に加え、男が自殺をほのめかしていたこと、被害者遺族のコメントが報じられた。

 ◆毎日新聞11日夕刊(3版)

 前日と比べ、写真がついてより詳細になった。県警は殺人に切り替えて捜査とのこと。男のリュックサックからなたやナイフ。11面では乗客の混乱の様子。男が「自分は価値ない」と供述している。

 ◆読売新聞11日夕刊(4版)

 被害者男性が犠牲になったこと、加害者には「自殺願望」があったこと、遺族のコメント、JRについて。

 ◆産経新聞11日夕刊(4版)

 1面。死亡した男性が女性をかばって殺されたことが判明。「前触れ泣く無言で刃物」。堺の男子高校生(乗客)は、服に血がついて血だまりを見た、と。加害者男性は半年前に家出しており、自殺願望があったという。新幹線は安全対策が必要であるという記事、それに被害者男性への悲しみの声。

【分析】

 やはり時間の経過とともに、加害者男性を取り巻く環境と動機らしきものを探ろうとする傾向が高まっている。しかしながら、動機が詳細より大事というわけではなく、むしろ詳細に関しての記述が強化されている。

 各紙の報道 ~詳しくなる加害男性の内面的記述

 12日朝刊を見ていく。その前に、報道を見る際に当事者のコメントが大きく影響することがある。ここでは、この日に報じられた加害者の実母のコメントを抜粋する。

「どちらかといえば正義感があり、優しかった一朗が、一生掛けても償えない罪を犯したことで困惑している」

「私なりに愛情をかけて育ててきた」

(就職がうまくいかず、自殺をほのめかすようになった直後の、祖母との養子縁組のあとに)「無理矢理連れ戻していたら」

 ◆朝日新聞12日朝刊(14版)

 34面。犯人は祖母宅から家出をし、その祖母名義のキャッシュカードを用いて数ヶ月野宿をしており、事件の当日に上京している。長野県で刃物を買った。実母のコメントは上記。また昨年末より親族を離れたか。一方、被害者男性の人柄についても記述されている。

 ◆毎日新聞12日朝刊(13版)

 31面。加害者が唐突に襲撃してきたこと、勤務先にコメント。加害者のノートに「新しい自分を取り戻す」。

 ◆読売新聞12日朝刊(14版)

 39面。凶器、被害者について取り上げている。

 ◆産経新聞12日朝刊(14版)

 26面。22歳容疑者は長野で野宿していた、「この世にいても無駄」。新幹線の密室での犯行をどう防ぐかについても取り上げている。

<分析>

 より加害者の犯行動機に接近した報道になっている。実の親・祖母など、近辺の人間関係から探っている。

 各紙の報道 ~以降の報道頻度と、詳細な報道

 ここからは各紙で報道のタイミングが異なる。13日はほとんど報道がなく、14日朝刊・夕刊までを一応チェックした形での分析になることをご了承願いたい。

 ◆朝日新聞14日朝刊(14版)

 32面。JR車掌が加害者が犯行時に15分間「話聞きます」と説得していた。神奈川県警の取り調べに対して、「人を殺したい願望があった」「社会に恨み」。一方、車内で座席を取り外して自己防衛する手段という意味での「盾」を取り上げた。

 ◆毎日新聞14日夕刊(3版)

 29面。取り調べに加害者「社会拒む」。車掌が加害者を監視していた。

 ◆読売新聞14日朝刊(14版)

 34面。ナタやナイフは3月に購入したもの。

 ◆産経新聞14日朝刊(14版)、同日夕刊(4版)

 朝刊は31面。「殺人願望 昔から」。夕刊は、死亡した被害者男性が転倒後に再び制止して反撃に遭ったとみられることと、車掌長が15分説得したことを伝えた。

<分析>

 事態の把握→被害者・加害者の詳細というフローはすべての新聞で徹底されている。テレビほど報道がセンセーショナルである必要もなく、ある意味冷静ではある。新聞というメディア故の結果だったかもしれない。テレビでの分析を行いたいとも思ったが、スケジュールと分量から不可能だった。

非日常と日常の狭間から、ごきげんよう

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 ここのところ、非日常と日常の境目にあるふわふわとした雰囲気に自分の身が置かれているような気がしている。そもそも、「非日常」と「日常」は確かにぱっきりと分かれている空間があるのだけれど、その間にグラデーションが存在していて、「日常」から「非日常」は急激だけれど、「非日常」から「日常」へのトランジションは緩やかで、ついその切り替えのグラデーションに酔いそうになるのである。

 先に「非日常」の話をしたい。僕にとっての日常である大学とバイトが消化された後、母校の文化祭に顔を出した。某タレントの出身校というつながりから最近は某芸能事務所に牛耳られ気味な我が母校だが、今年もどこぞの大学のごとく豪華な文化祭であった。アホみたいな雰囲気ですらある。もちろん、高校にいたときの文化祭は「日常」であったのだが、外から一部分としてではあるけれど客として文化祭を眺めたときの「非日常」を味わってしまったのである。ここからしばらくの浮遊感が始まってしまう。

 過去の「日常」を振り返ることは「非日常」なのか、それとも「日常」の平行線の続きなのか・・・・・・。文化祭の途中で部活の同級生に出会ってかなり話し込んだ。彼女らには僕の不手際で大きな迷惑を掛けたので、半分後ろめたい気持ちもあった。それでも近況トークは盛り上がったし、持ち込んだ差し入れはウケたし、なんだかヌルッと「日常」に潜りこんだ感じがしている。別れるときだってなぜかどこかで会える感じしかしなかった。これは、とてつもなく変な空気だ。よそよそしさを空気として介在させながらもそれを手なずけるコミュニケーション。久々にあった人々とはそんなコミュニケーションをしていたので、少し壁を感じかけていた。(まあ言うて悪い雰囲気じゃなかったけど)

 そんな空気を身にまといながら、日曜日はfhánaのライブに出かけた。朝は遅めに出かけて、モチベーションの低下を抑えようという目論見だったのだが、JR神戸線の遅延によってくたびれさせられた(そのほかにもいくつか面倒ごとがあったのだけれど、ここでは語り得ないことばっかり)。阪神に乗り換えた後に、「定期券の範囲で使えるじゃねーか」と自分の頭の悪さを呪ったりしたが、その頭の悪さのおかげでクソほどうまいつけ麺屋に行けたりしたので、その辺は運である。このあたりは「非日常」のオーラに上手いこともってかれた例、な気がする。

 ふぁなみりーの方々との挨拶や、会場脇の洒落たカフェでの小さな集まり、物販で高まったり、それで「非日常」の色は濃くなるばかり。そして始まったライブは、まさしく「非日常」の極みだった。これは公式でも呟かれているからネタバレじゃないと思うのだけれど、JUDY AND MARY「そばかす」と、小沢健二 feat.スチャダラパー今夜はブギー・バック(nice vocal)」をカバーしたのだ。特に「そばかす」のyuxukiさんの冒頭の暴れん坊ギターと、「今夜はブギー・バック」で佐藤さんが「Say! towana!」ってコールするとこっちがレスポンスで「towana!」って返す流れ、さらにkevinのラップのうまさが際立っていて楽しかった。そのほかの(セトリバレの怖い)fhána曲も、昨年のツアーに比べ洗練されパフォーマンスとして最高レベルに到達したエンターテイメント、もしくは美しい何かになった。これが「非日常」である。完璧なまでの「非日常」である。自分の体験を超えた何かを知らせてくれることを、僕は「非日常」と呼ぶのだろう。

 ふぁなみりー数名ほどで、ライブ後に打ち上げ的なものを行った。打ち上げのハイライトは「いち亀兄さんがとあるふぁなみりーカップルのことをご存じなくびっくりされていたこと」で確定。このあたりは「非日常」の名残を味わうためのトランジションだったのかもしれない。帰りはわりとギリギリになって、最寄り駅にちょうど24:00着となったので、なんとなく自分がシンデレラになったような感じがした――魔法が解けるように、「日常」に戻っていく。阪急梅田駅発の快速急行は実際路線的には定期券で毎日毎日通っているわけで、あー明日はこの小豆色の電車に朝から乗ってんのか、信じらんねえなあと思っていたものだ。それでも、「日常」に戻る覚悟は、fhánaのライブのコンセプトを体で感じたときから持っていた。

 だから、今朝こうして、突然(こちらから見て遠方を襲った)地震により「日常」ではなくなったけれど「非日常」でもないこの微妙な線上に立つ空間に戸惑いながら暮らしている。まさか、昨日訪れた場所が地震に襲われるなんて思っているわけもなく。休講になったあと何の気なしにつけたテレビには、昨日訪れた電車の駅の階段でまだ来ない電車を待つ人々や、乗り換えを間違えた時によく引き返す駅の表示板が傾いたり、「日常」だったものを吹き飛ばそうとするほどに衝撃的な映像が繰り返されていた。

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 現在もこうして地震による影響で断水などが行われていたりして、なにもかもが今夜心細く見える人がいるのかもしれないし、また、地震とは関係なしに、トランジションもなしに「日常」にたたきつけられた人がいるのかもしれない。もちろん、僕のように、なぜか「非日常」と「日常」の狭間に迷い込んだ人もいるだろう。

 しかし、音楽や文化、小説やリズムは、どのような人にも――決して身体的にとはいえないものの、精神的に平等に与えられ――そばに寄り添ってくれているのだなと、痛感している。それを、fhánaがツアーで一番いいたいことだと思っている。どのような「日常」にも、どのような感情をも引き受けうるクリエイターの精神と器量に乾杯、そして普通の「日常」の人々に賛辞を。誰にも、望めばいつかまた「非日常」の入り口が開くチャンスがある、と僕は感じた。

 なぜだかまとまらない文章になったのは、この数日間にまったく現実感がないのと、寝不足によるものだと思うのだけれど、いいオチも考えつかない。とりあえず、非日常と日常の狭間から、ごきげんよう

電子関所の妙

 鉄道系ICカードを使った改札の仕組みを見て、「これって"電子関所"じゃん」と、それも電撃が走ったように、感じたのである。関所は渡るための札を必要とするが、ICカードってまさにその札なのだ。つまり、今までは(もしくは、今も)関所を通る度に関所手形、いわば「通行券」を出していたようなものだが、それではあまりにも非効率すぎる、と考えたのだろうなあ。高速道路のETCもたぶん同じ発想ではないだろうか。
 しかも関所なのに、昔の一本化されていた関所とは異なって、ある人には開かれ、またある人には開かれない。この「開かれない」ということは、閉ざされている訳でもないのだ。電車を使わなければ、別にその関所を通らなくたっていい、高速道路を使うなり、自転車を使うなり、最悪の場合歩けばいいので。その意味では、関所はある意味消滅したようでいて実は高度に進化して生き残っているように思われる。
 この現状は、一元的なサービスでキャッシュレス化を進める中国とは対称的なものだと言える。中国では屋台も電車もレンタルバイクも飯の注文もすべてスマホQRコードを読み取らせているので、ある意味スマホが関所手形と化しているが、日本では様々な関所に様々な関所手形があって、これは中国の人々から見て「面倒くさいな」と見られるのだろうか・・・・・・。などと、電車通学を始めて思った。