生徒会長
大学で校友の輪が広がりだした。授業ごとに友人が見つかるのは、友人たちの集団というものができやすい中学や高校よりも直接人となりに踏み込めるので、個人的にはとてもありがたかった。
反面、大学生活にもいいことばかりがあるわけではないのはご周知の通りで、一つはコミュニケーション能力の不足を痛感させられるグループ型授業、一つは長い通学時間だ。通学時間でいうと、だいたい過不足なしの二時間を2セットが週5日で、阪神地域の通学通勤ラッシュとも重なることから、疲労感と時間のなさを痛いほどわからされる日常だ。
小豆色の某私鉄から、三ノ宮で混雑する新快速を避け快速電車に乗り継ぐ。今日はそこまで混んでいなかった。ホームでやや人の少ない乗車位置に立ってその列車を待ち合わせていたところ、中学時代の同級生を見かけた。まさか、こんなところで出会うとは・・・・・・という気持ちがあり、やや動揺した。
その同級生は生徒会長だった。いかにも頭が冴えたやつで、生徒会の中でも嫌みのない明るさを発揮した人物だった。中学時代を通じて浮いていた僕にも話しかけるような変な人でもあり、俺の中で中学生活で印象深かった人物の一人だ。
生徒会長はほかの優秀な生徒がそうしたように、地域の最上位の高校に行った。その概況を見つめながら、漠然とではあるが、彼はもしかしたら違う次元の世界に翼をはためかせていくのではないか、恐らくそうなったら「忘れ得ぬあのひと」になりえるな、と思うことだった。
その男と、まさか神戸の駅ですれ違うことになるとは思わなかった。俺はその旧友に近づいて挨拶を交わそうとした。しかし彼は気づかない。年月は人を忘却させてそのまま記憶ごと押し流していくのか、と瞬時に思う。
その快速電車が須磨を抜けたあたりで、朝からの疲労がピークにさしかかってクタリと寝てしまった。稲穂の垂れる頭かな、そんな寝方をしているとどうしても肩がつらくなってきて、最寄り駅の少し前で寝ぼけつつも目を開けた。
起きたタイミングにちょうど生徒会長だった男が電車を横切っていった。そのときに顔を正対する形になって、「あ、俺のこと覚えてる?」「K(仮名)やん、おひさ」と軽い言葉を交わした。だが、それだけいうと彼は俺の方を一瞥もせずにそのまま列車の中を突っ切っていった。最寄り駅も同じはずなのに最後まで見かけることはなかった。
あいつはどこに行ったのだろうか。その問いには、電車に乗ってどこに行ったのだろうか、という意味以上のことがある。
俺は本当にアイツが元生徒会長のKだったのかと、本当は別人で、願望のままに思い込んで寝ぼけていたのではないかと思うところもある。だが、アイツの姿は眼鏡も背格好も中学の面影を強く残していた。それだけに、違う世界に飛び立っていたものだと勝手に思っていた人がいまだにこの場所にいるということから、ではアイツはどんな世界を見てきたのだろうという疑問が湧き上がってきた。
しばらく会っていない人がその目で見た世界はどんなものだったんだろうか。それをずっとずっと考えている。
最寄り駅の出口を出た瞬間にとても激しい雨が降り出した。ここ数日見なかった雨だ。それは何を意味していたのだろうか。出来すぎていたくらいのタイミングだった。
世界地図はまだ完成さえしていない ~fhána「World Atlas」
fhánaの「World Atlas」を聴いて思ったことをつらつらと。
このアルバムがある一つの道筋を見つけたかのように思われ、またタイトルを付けるところにも至ったのはちょうどトラック2の「青空のラプソディ」の頃である。この曲はキャリア最大のヒット曲であると断言可能な代物で、またボーカルのtowanaの喉の手術から復帰して初めての曲でもある。そんな「青空のラプソディ」は、今までのシングルとは違う外向きな曲であり、佐藤純一というひとりのクリエイターのルーツが詰まっているポップな曲である。それも、明るすぎるんじゃないかってくらいはじけた曲。
アルバム全体を見渡したとき、「青空の―」は、リードトラック「World Atlas」とトラック3「君の住む街」の間にある。さらに続く「Do you realize?」を含めたこの4曲は、強い祝祭感と心の衝動に支えられている。このあたりはかなりライブで披露することを意識した選曲・曲順となっていると思う(曲順としては「君の住む街」が少々明るすぎる気もするが)。
「Do you realize?」は、その流れをよりエモーショナルに加速させ、アルバムバージョンとしてイントロが拡張された「わたしのための物語 ~My Uncompleted Story~」へと流れ込む。歌詞は純粋な熱情と切実さが表現されていて、先の流れとはまた違った心の動きが表現されている。とはいえ、「祝祭の街」的イメージの括りで見れば、トラック1~5までがひとつの流れになっていると思う。
祝祭の街から「回想としての街」へのトランジションに「reaching for the cities」を使ったのは、次トラック「ユーレカ」とのつながりを考えたときにやや光りすぎるというか、目立ちすぎた感じがする。音楽としては「reaching ―」の『旅に出ようとする青年の』軽さと、「ユーレカ」でのtowanaの『上京した人々が知らぬ街で奮闘しながらなにかつかもうとするような』切実なボーカルがまったくの異種であるから、ここは街という共通点だけでは読み解けないところがあるんだろうか。
「ユーレカ」~「アネモネの花」~「star chart」~「Rebuilt World」~「ムーンリバー」の流れは完璧で、寂しくも美しいところがある。切なさがメロディの端々からあふれ出す。物語をつなげていくからこそ、その繋ぐ部分に物語が生まれるというところは、この流れの中にアニメタイアップは1曲だけであることからも、またfhánaのいままでの活動を振り返っても自明であると。
ところで、「ムーンリバー」の仄暗さがこのアルバムの最大の静寂であり、「ムーン」なのだから「夜」なのだろうし、と考えたところで思いついた。ふと思えばこのアルバムは街の日常を朝から夜まで見つめているとも思う。「World Atlas」が朝9時くらい、「ユーレカ」までが昼から夕方への移り変わり、「アネモネの花」は夕方で「star chart」~「ムーンリバー」までは間違いなく街に訪れる夜である。
とすれば、「Hello! My World!!」は一体どのポジションなのか。この構成すべてが僕の仮定の下に立っていて、それ以上でもそれ以下でもないことはわかっているが。わかっているが、この曲の明るさは実際始めにあってもおかしくない。それをわざわざここに持ってくるというのは、「Rebuilt World」~「ムーンリバー」における『復活』を象徴する曲だからだと思う。「Hello! ―」も『さぁ光ある明日へ』と歌う。次の朝への祈りと表現するのはなんとも詩人的すぎるか。
トラック13「Calling」。この旅においての深い夜である。休息である。旅の終わりである。長いアウトロが旅の記憶をフラッシュバックさせる。そのあとの静寂が眠りを想起させ、ラストトラック「it's a popular song」が流れ出す。
「そう 行くんだ 次の目的地へ 戻れぬ港に 手を振って」
リスナーだけでなく、この世に生きとし生けるものが共通して持つ感情のかけら――いつか失われ、そしてまた作られる――を歌に乗せて訴えるのがこの曲の役割である。
ここまで書いておいて、「褒めておいて落とす」のもアレだけれど、このアルバムは(というか、いつもだけど)コンセプチュアルに仕上げられすぎた。新曲が少なく、大幅にカップリング曲が収録されていて、買う側としては旨みがない。マーケティングとしてなら首をひねる品物なのは言うまでもない。だがそれ以上に大事なことがある。
fhánaは外に出ることを望んだ。そのためには、今までの曲を新しい曲とうまく融合させていき、より新しくなることが必要だ。それが今回どこまで出来たのだろうか。構成自体はとても美しいけれど、曲の一つ一つを見ていったときに、アニソンで新しい主流になりつつあるサビの二段重ねや「fhána方式」(『2サビからDメロへ急に行って、そこに最高沸点を持ってくる手法』と田淵智也(UNISON SQUARE GARDEN)が語ったもの)*1にかなり縛られていると思う。逆から見れば、 yuxuki さんの曲からエネルギーが見えるのは自分のメソッドに固執せず自然体で作ることが出来るようになったから・・・・・・なんて思ってみる。
このアルバムが「いい世界地図」なのではなく、これから旅をしていくことで「世界地図」は完成していくと思った方がいいのかもしれない。それはライブかもしれないしシングルなのかもしれないし次のアルバムの可能性もある。
女性記者とテレ朝の対応は間違っていたのか
財務省の福田淳一事務次官はセクハラ問題を否定したものの、政治を混乱させたということで事実上更迭された。このセクハラ被害に遭ったのはテレビ朝日の記者であったということが、18日のテレビ朝日「報道ステーション」・19日未明の会見で明らかになった。
週刊新潮が発表した音源データや周囲の証言から福田事務次官についてはさすがにもう黒であることが判然としている以上、いま注目されているのは「テレビ朝日の対応は正しかったのか」ということである。
18日朝刊の朝日新聞・読売新聞によれば、女性記者は自己防衛のために事務次官とのやりとりを録音しており、これについて報道するよう相談したが、上司が難色を示したため、週刊新潮編集部にデータを提供していたということがわかる。これについて、テレビ朝日の会見では、データ提供の件には「取材過程で得た情報を第三者に渡したことは報道機関として不適切で、遺憾である」とのコメントをしている。一方で、この件を報道しなかったのは「二次被害を恐れたため」だともいう。
さて、テレ朝の対応に問題があるのは主に次の2点である。
- 報道をしていて、その被害者に対しての配慮が適切に出来ているかの定期点検をしているかわからない=二次被害にいままで鈍感だったのではないか、ということ
- 「取材過程で得た情報」とはいえ、女性記者の件は取材相手からの人権侵害にあたるもので、それに迅速な抗議が出来なかったのか、ということ(初動が遅い)
特に2は問題である。この問題は記者でなくとも人として重大な人権侵害にあたるものであって、通常なら法廷闘争に持ち込むためにも録音をするのは普通である。それを元手にうまくやれなかったというのは、メディアとしてどうなんだろうかということだ。
一方で、今回に関しては二次被害に敏感にならざるを得なかったのではないかというところも存在する。民進党の会見においてフリーランスの記者が女性記者の実名を晒したほか、「ハニートラップ論」を掲げるトンデモがいたり、もうカオスである。どうなってるんだ。そんなやつがいるから報道をためらう羽目になるんだぞ。意識が古すぎる。
正直言って、全般的には「初動は遅いしだいたいこんな真夜中にやっておかしいと思わないのか」というマイナスイメージが強いが、しかし実際論、言わないと議論の起こらない話であった以上、この会見は開かれるべくして開かれた会見であり、会社の体質と向き合っていくという意思表明である。つまりこの表明に背くことがあったなら、大きな罰を背負うことになるわけで、そういうことを考えてまでも意思を表明するのはたやすいことではない。
実際問題、週刊新潮が報じなければ麻生大臣はじめ多くの言論・政治関係者が事務次官の強気に押されて信じ込んでしまっていたからこそ、メディアの力にはいい意味で自覚的であることがいいと思っている。その意味で、テレビ朝日は一度、負けたのだ。
思想言論に生きるよりも、現実に寄り添って強く生きる方がもっと難しい。茨の道を歩きだした。
人間を知るためのモラトリアム ~伊坂幸太郎『砂漠』
今週から大学生活が始まった。片道2時間強の電車通学の間にスマホを弄っていると充電が切れるし、かといって乗り換えの多さと複雑さから迂闊に寝ることも不可能だ。そこで、体力と集中力を使って読書に勤しむことにした。2時間×2=4時間もあるので、その中で一冊読み切るのは不可能ではない。とはいえ、その分だけでは内容の読みが浅くなりそうでもあったので、同じ本を翌日も読むことにした。
ここでは、読書の感想をできる限り書いておこうと思う。
さて、春休みに「大学生活はそんな素晴らしいもんじゃねえよなあ」と思いながら、ほぼ何も考えずに書店に並んでいた一冊の小説を手にした。伊坂幸太郎『砂漠』。奇しくも大学生活を通しての友情などが描かれる物語だった。
仙台の国立大学の冴えない法学徒の「僕」(北村)、髪の毛が「やませみ、みたい」な鳥井、ものを動かせる超能力を持つ南、美人で愛想のない東堂、そしてなぜか世界平和を熱く語って周りから引かれる西嶋。新入生の宴会、西嶋に「東西南北に当てはまってるから」と誘われた麻雀を通じて、1年次の春に緩やかな関係を築いていく。
不器用な熱意
そんな中で彼らを変え、あきれさせるのは、どの章においても西嶋だ。物語に流れる一つの軸は「プレジデントマン」*1という奇妙な通り魔的な人物をめぐる顛末にあり、西嶋はその謎の人物に強い興味を示すのである。その興味の根底には、『人間であるということは、自分には関係のないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ』(サン=テグジュペリ)という、一見、自分が関わっているいないではなく見える世界だけが世界である、みたいな見解がある。
西嶋は自分が見える世界なら変えてやりたいと思い、そこに関しては臆せず行動する男だ。保護所の犬も飼うところの考えを後回しにして拾ってしまうし、あるいはプレジデントマンに共感して世界平和を訴えたりもする。その不器用な熱意は、時に仲間たちの傷を癒やし、時に抱えている問題を解決するための糸口にもなる。
登場人物の変化
出会いからしばらくすると、やがて登場人物は様々な出来事に巻き込まれ、ことあるごとに窮地に追い込まれる。特に物語前半では鳥井が苦労人である。彼は俗に言う「お調子者」で、ナンパされた女子と合コンにほいほい付き合って、その女子と結託したホストにボウリング対決を申し込まれて金どころか在学すら危うい状況になったりする*2。
しかし、物語中盤にして、鳥井にも北村たちにも最大の試練というべきことが待っていて、その前後において鳥井は変わっていないように見えて変わっている。「プレジデントマン」に関する出来事に自ら巻き込まれに行ったとはいえ、その結果として悪意ある車に轢かれて左手を失ったのである。
左手の損失により塞ぎ込む鳥井を、西嶋はやはり持ち前の「不器用な熱意」で救ってみせた。しかし鳥井は身を守るために、そして大切な人を守るために、さらに精神的にも身体的にも強くなる。何より、自ら巻き込まれた出来事に決着をつけようとする。そう、人は変わる。その「変化」を描くための存在が鳥井だろう。
そういえば、その対極にある「変わらない女」は東堂だ。終始無愛想で、必要のないことは言わない。ただ、彼女の周りと、それに対する西嶋の行動が変化する。そうすることによって彼女のかすかな変化が、直接明示されることはなくとも読むことができるようになっている。なんと構造的に美しい小説か。
「鳩麦さん」とモラトリアム
伊坂氏はこの小説のテーマを、文庫本に新録されたあとがきにおいて「モラトリアムの贅沢さと滑稽さを描く」という動機があったという発言からほのめかしている。
さて、この小説は先に紹介した北村たち以外にも複数の人物が登場するが、とくに中盤から後半にかけて鳩麦という登場人物が重要なポジションを担う(序盤から登場はしているのだが)。彼女は大学の学生としてではなく、男性用のブティックのバイトとして登場している。つまり「大学生活としてのモラトリアム」を経験できる立場にない。実際、彼女が北村に同行して様々なことをするのは休日だからであり、北村から見ればすでに社会に出ている存在である*3。
しかし鳩麦が北村との会話や彼らとの行動のなかでモラトリアムを疑似体験しているともいえるのではないか――社会という砂漠に出ているけれど、決して彼女だけでは味わえなかった世界を伝え聞き、実際に上陸することが出来るくらいには。
「思い出は作るものじゃなくて、勝手に、なるものなんだよ。いつの間にか気づいたら思い出になってる、そういうものだよ」と鳩麦は語る。ずいぶんさらりとした語り口で、この物語の本当の目的、みたいなものを突いている。目まぐるしく動く生活をそう思えるようになるのは、一体いつになるだろうことか。
・・・・・・以上の点から、僕は鳩麦は物語の軸を担う重要な人物だと考える。
モラトリアムの意義
西嶋は「その気になればね、砂漠に雪を降らせることだって、余裕で出来るんですよ」と語っている。無根拠までの誰かの自信によって、多かれ少なかれ、人の生活は動かされている。濃密な人間関係を味わえるモラトリアムの鮮やかさを眼前に突きつける作品だったと言うことになるだろう。
なんてことは、まるでない。
登場人物のそれぞれが抱えた問題が複雑に絡み合いながら、自らの決着すべきところへ成長する、そのためにモラトリアムを使うという、贅沢であり、またある種人生の過程でどこかで通過しないといけない「オアシス」のような体験を描いているが、しかし単なる「オアシス」なのではない。踏み出す世界は砂漠のように荒れ果てて広がるが、そこにオアシスはないのであって、また振り返ってオアシスに閉じこもることも不可能だ。だからこそ、僕たちは程度の差はあれど人間を知るためにモラトリアムを使うのだ。
人間を知ることは、つまり自分を知ることだから。そうでなければ、北村は逃げていくRV車を捕まえることは出来なかっただろう。
風見鶏は今のところこっちに向いています(ブログ移転のお知らせ)
はじめに
このブログ*1に基本的に目的はない。そのために、読み返しても思考をたどれないことがままある。それを避けるために、あえて今まで書いた文章をインポートした上で、主張のはっきりしたものだけを残しそれを整理する形で移転することにした。
本屋で日経の株式情報が載ってる分厚い冊子を子どもながらに血眼で立ち読みしてる変な少年が成長し、ようやく物事の分別がつき始め、こうしてブログを書いている。初代ブログでは若さ故の残念な文章と不明確な論旨と写真の取り扱いの不便を嘆き、二代目ではやや記述する内容に精神面への偏りがあったという、実にめんどくさい人間だった。が、ブログの代替わりの直接的原因はブログサービスへの不満だったりする。はてブロでは注釈にいっぱいお世話になると思う♡*2
「風見鶏」でも初代・二代目同様に、メディア関係の調査や主張、fhánaに関するちょっとしたコラムを中心に据え、新たに政治的主張(主にファクトチェック)を加える。二代目にあったような精神性に偏った話は減らし、読みやすいものにしようと思っている。
自己紹介
世が21世紀に突入しようとしている前年に生まれたので、抜本的な医療革新でも起こらなければおそらく21世紀中に死ぬだろう。兵庫は播州で生まれ育った一方、俺は高校以外すべて東に目が向いていて、大学進学に伴い平日大阪民となるのは確定の模様。
小学生の頃からテレビ好きだと思っていたが、親曰く「幼稚園の頃からずーっとテレビの前に座っているような子供だった」という。その影響なのか小学5年から高校まで放送委員会や放送部にいたが、それといった成果はなかった*3。
テレビ好きがメディア全般への興味になったタイミングはいまだに判然としないものの、畢竟、大学の学部もそれに伴った学部になったりする。今はその駅前大学*4の入学式をあさってに控えているところ。
掲載予定のトピック
fhánaの最新アルバム「World Atlas」、BURNOUT SYNDROMESの最新アルバム「孔雀」についてのレビューや、バイトをしていて発見した出来事*5、また先に取り上げた「永田町の発言や世間の反応が事実と照合するものかの確認」=ファクトチェック、この三点を時間のあるときにやろうかなと思っているが、あくまで予定は予定なので、こんなことよりもとりあえず駅前大学通でラーメン食べたい。