風見鶏はどこを向く?

Twitterより深い思慮と浅い現実味を目指します fhána/政治/放送

選挙/衆議院選の投票行動の推測

 今回の選挙は熱かった。何が熱いって、台風の中で主張の明確な党同士が争う、これまでにない波乱だったんだってこと。与野党の混戦選挙区も多かったので、見てる分にはドキドキハラハラしたものだが、さて実際の暮らしにつながってくるとなるとまあ楽しむという視点はなかなか持ちづらいというところだ。
 選挙前に「希望の党」が立ち上がり、センセーションを巻き起こすかに見られていたが、小池東京都知事兼同党代表の「排除発言」で最終的に「立憲民主党」が出来て、野党票が二つに。が、この一連の動きの間に与党自公に動きや大乱はなく、安定した議席獲得は与党となった。
 そのような党の内乱を横目に、有権者はどうやって議員を選んだのか。細かい分析は細かい人に任せるとして、その分析を元手にした推測を立ててみる。
 真っ先に取り上げるのは「知名度候補」だ。自民党でいえば神奈川11の小泉進次郎や、新潟5の泉田裕彦(前同県知事)。立憲でいえば党首で埼玉5の枝野幸男などだろうか。といっても、小泉や枝野は党の目玉候補であり地域住民の信頼感の現れであるのに対し、泉田は一応選挙区では新人なので「党として(というより党の意見と一致して)」より「地域の知名度」が勝っている感じがある。
 知名度でまさる候補も全国には確かにゴロゴロいるにはいるのだが、しかしそのような候補ばかりで選挙というのは成り立たない。では、そんな選挙区ではどのような投票行動を有権者は見せたのだろうか。
 その前に、今回の選挙区の政党配置について考えてみたい。一番多かったのは、「自民・希望・共産」の「保守・やや保守・革新」の構図で、他にも「自・維新・共産」(大阪に多い)など、保守対決になった選挙区が多くある。
 そうなるとやはり、これは「草の根による『党より人』」になるのではないか。なにせ、保守政党は政策自体はほぼ一緒なわけで、そこから選ぶには「人」なのだ。
 しかしその真髄は『党より人』でありながら『人より党』でもある。これはどういうことか。
 強力な政府による政策の必要がある地域――たとえば都市部空洞化・教育政策・原発などの地方基幹産業に関わる諸問題についての、安定的かつ実行的政策を望む地域――は当然、安定的にことを運ぶ与党系候補を選択し、その議員に地域の声を取り入れるよう呼びかけるわけで、そこにリベラル派が同じ路線で食い込めることは無い(与党系の方が圧倒的に実績というアドバンテージを持つ)。結果として都市部では有効な政策をかかげている政党でも、地方では与党批判に移ってしまう構図が、地方においての与党系候補の当選の間接的要因だ。
 たとえば、兵庫の公明党候補2名は、「法案提案・実現の実績」をアピールし圧巻の当選。こういったことからも、与党であるだけで半端ないアドバンテージがあるのは事実。与党にいることで実現力が違う! というのは、確かに間違いではないだろう。
メインの思い・主義主張よりも、自分の生活に関わる切羽詰まった政策がより動きやすい政党に入れるのは、自然な投票行動と言えるだろう。
 どの政党も11月になれば厳しい船出は覚悟しなければならない。維新は現有を大阪で守れず、公明は油断の小選挙区全勝ならず。自民は余裕はあるが現職が追い込まれたケースあり。
 希望は言うまでもなく大敗微減、立憲もまだ組織も構築されておらず党内ガバナンスも気になる、共産社民はもう存在感キラーとの戦いになるだろう。

辛いときこそ高校野球の実況を思い出してみよう

 世の中は照りつける逆光を睨んで進むものだ。
 しかし世界温暖化を目にして、うだるような暑さに理不尽を感じるような人生を思うこともあるだろう。そんなときは、高校野球の実況を思い出すといい*1
 
 たとえば、大学受験。マークミスはセカンドが捕ったと思ったボールをこぼすエラー、
セカンド、ボールを捕っ……あー! こぼしているーーーー!!!! その間に二塁ランナーは一気にホームに帰ってくる!!!!
 このセリフで焦らないものは多分いない。
 問題の回答がコンマ1秒でひらめいたなら、バックホームに例えるとテンションが上がる。
四番平田、左中間を強襲したーーーー!!!! しかし肩の強い好返球が、いいボールが、バックホーム!!!! タッチは……アウト!
 言わずもがな、この平田は現在中日で活躍する大阪桐蔭の元球児である。余談だが、僕は2005年の熱闘甲子園が、素材と調理が共に素晴らしく大好きだ。
 これが連続でひらめきをものにした時だったら、連続三振の大阪桐蔭・辻内や、今年で言うなら花咲徳栄・清水みたいなスーパーリリーフが戦果を上げるシーンを想像しよう。
加速する三振ペース! 三者連続三振! 合格へと、辻内の左腕が唸る!!
 さらにお好みで二塁ランナーを背負うと緊迫感が高まる。
 ちなみに自分を攻守のどちらかに置くかはお好みで。「必ず決めなければいけない」なら守り、「ここまでに仕上げなければならない」なら攻めがいいだろう。
 攻めという意味では、制限時間ギリギリにまだ大問一つ分残っているならこんなことを考えてみるといい。
9回ウラ、四番打者は打ち上げた……2塁ランナー進めないまま。とにかく反撃しようとしますが、遥か遠いのが甲子園のホームだ
 大問一つ分を数分で解き上げるためには、進塁打を放つ勢いを焦りで作らねばならない。
 
 大学受験だけにとどまらない。小が漏れそうな時に思い出していただきたいのが、このセリフだ。
「ピッチャー、ゴロ! 三塁ランナー飛び出していきます、ピッチャーが追い込んでいきます、あー、あー……セーフになった、それを見て一塁に送る…………送球が、逸れたーーーー!!!! その間に三塁ランナーホームイン!! 二塁ランナーも勝ち越しのホームイン!!
 スリーアウトチェンジかと思いきや、危機一髪間に合った球児だっているのだから、俺がトイレに間に合わないわけがないと考えるんだ。急いで駆け込め。ちなみにこれは2005年準決勝、宇部商京都外大西の対決だ。

*1:ちなみに僕は関西民なのでABCの高校野球中継が見られるので、好きな実況の名手はテレビ朝日清水俊輔アナウンサー

fhanaについてのある種の論2017 ~メジャーデビュー4周年によせて

 fhànaのライブパフォーマンスは、贔屓目で言うのではないが、場を彼らのものにしてしまう強烈な力がある。kevinさんのソロから熱気を帯びるオーディエンスは、メンバーの登場で目を輝かせる。メンバーもまた、オーディエンスに笑顔で手を振る。それは towanaさんが例えたように、太陽と月の関係にあると思う。

 誰か一人が突出したパフォーマンスではない。世代が微妙に異なる演奏者3人ともがコンポーザーを務められる柔軟性と、困難を乗り越えてきたハイトーンボーカルの芯の強さが絡み合う。出るところは出て、引くところはひそやかに。

 インターネット発のメンバーだが、ネットの可能性を少しずついい意味で疑い始めた眼から、新しい可能性は始まると信じていたのではないか。そういえば、佐藤氏がFLEETとfhànaの中間期に発表したボカロ曲は「Cipher」だった。意味は「0」、「取るに足らないもの」、「暗号」らしい。なかなか哲学的なタイトルだが、そこからfhànaとしては東日本大震災という大きな出来事を経て、「kotonoha breakdown」という曲を作り上げた。この二曲の間に流れる関連性を断言はできないが、ゼロからの(人々の言葉の)崩壊がはじまりの場所だったのか、と今では思うことがある。

 破壊があれば再生はある。それを象徴するのは、fhànaがメジャーシーンで活躍するその真っ只中の昨年のツアーファイナルで、towanaがポリープに苦しんだ一件。

 ボーカルにとっての生命線、声。気合いで乗り切ったツアーファイナル。立て続くイベント。そして手術。

 困難が彼女を強くした。予想以上のハイトーン、予想以上の振り切り方をした今年最初のシングル「青空のラプソディ」は、グループ史上最大の売上を記録した。

 新たな取り組みを続けながら、強くなっていくからfhànaなんだと思いつつ、僕は祝福する。

 メジャーデビュー4周年おめでとうございます!!!!

 個人的には最近towanaさんの語学力とKevinくん(思いっきり僕より年上なのにくん付けしたくなるオーラ)のトレンドリサーチ力のにめっちゃ驚いていまして。っていう記事をジャズを聞きながら書きました。

地元意識と高校野球

 夏の高校野球は終盤を迎えている。延長に次ぐ延長、快打に次ぐ快打。
 活躍しているのは、大半が私立高校だ。2000年代に入り、公立校のベスト8入りは1~2校、出場自体も少ない。そんな中で、他県から選手を集める「野球留学」に対し、「地元意識」を見る公立校もしくは私立校に甲子園の観客の目が集まるケースがある。
 先日の青森山田彦根東戦。滋賀でも超がつく進学校である彦根東側のスタンドは、(甲子園から近いということもあったのか)「井伊の赤備え」を受け継いだように赤かった。
 一方の青森山田も、一昔前の「地元代表全然いない系」のイメージを覆すような、青森の選手を中心にしたメンバー。まさしく、地元愛をぶつけ合う試合だったのではないかと感じた。ちなみに、この試合で青森山田「紅」を演奏していたが、赤備えに紅をぶつける度胸、恐れ入った。
 結果としては青森山田の勝利だったが、このような地元愛がぶつかりあう試合は珍しい。熊本代表の秀岳館は、以前大阪のクラブチームをまるまる引き抜いて話題になったし、今年に関しても数割が私立校の野球部だなあ、というメンバー構成だった。
 観客は、もっとスケールを大きくするならば、各都道府県民はどのようなチームに地元意識を覚えるのか。県立校でも私立校でも気にしないという人が多いと、ことTwitterでは思う。あるいは、周りに聞いてもわかる。県境に住む方ならば、むしろ隣県の代表を応援するケースもあるかもしれない。
 選手に関しても、別に地元意識が重要ではない、と思っていそうだ。学校の地元に愛着を持つことはあるけれど、寧ろ大事なのは指導者のカリスマ性や能力、設備、そして強豪校という力であって、それならば他県に行くことも辞さない姿勢は、若き力として称えるべきだ。
 では、観客の地元意識とはなんだろうか。
 先の構図はすこし中国の卓球のようだ。特に大阪府でリトルリーグに所属していた選手が流出するのは、大阪のような強豪校揃いの地区では地区予選すら難しいと思うからだろう。これが、国単位になると、「うちの選手じゃないのか!」と思って、見るのをやめてしまう。事実、日本の場合、自国選手が活躍しているから卓球を見ているという方は多い。
 ただし、これはプロとアマの違いなのだろう。プロ競技でそれも国を代表しているスポーツと、アマチュアで(まるでセミプロだが)一応県の代表を謳う高校野球では、多少事情が異なりそうだ。自国選手だと国元に帰ったら全国的に「よくやった!」と讃えられるが、高校野球なら別に他県の選手で構成していても、その県の高校が優勝したら讃えられない・喜ばないということはない。
 政治の落下傘候補かな、とも思った。議員になってくると、住民は「地域の代表としての自覚」を欲することになるし、高校野球も「何」を代表しているんだ、となることもあるだろう。しかしやはり高校野球がそこまで求められているわけでもない。ある意味では、地区制でないならば、「進学留学」と区別がつかない(もっとも、進学の場合は県を代表する必要はまったくない。そんなのを強調しているなら、それは何かの大人だ)。
 むしろ、高校野球の場合は、地元意識以上に「部活の定義とは?」という所が問われているのではないかと思う。「部活先立・勉学二番」なところもある。インタビュアーが煽ったようではあったが、下関国際高等学校の監督は『文武両道は難しい、「野球」という武器を、と考えている』なんて話をしたこともあった。
 そうなると、観客の地元意識とは、観客の中での自己完結という形がほとんどではないのか。
 ――何か関わったわけではないけれど、何故か応援したい……。
 そのふわふわした不安定な意識のその一方で、強固に、ここに勝って欲しい!と思う気持ちで見つめる観客もいる。それは、明確な「地元意識」ではないだろうか。
 と結論付けるつもりだったが、もしかするとこの考えから選民思想に繋がりかねない話だな、と思う。まるで、『地元意識がない奴はふわふわしてるってのか!』と言われそうな結論だ。まだ明確な答えはないが、地域性の間に挟まれて「地元意識」などない自分が考えて本当に正しいことはあるのか、とも思う。
 
ブログ変更にあたって追記(2018/03/30)
 先日の松山聖陵沖縄県出身メンバー+沖縄での指導経験がある監督という、秀岳館に似た構成だったらしい。なんとなくこの記事を思い出したので追記しておきます。

尾道~二度目の旅は慢心に塗れる

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 “海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい”
 林芙美子Wikipedia を見ると、波乱万丈な人生を正確かつスピード感ある筆致で収めている。それも Wikipedia の各編集者がいう過大性につながっていないのもいい。
 とは言うものの、僕は林芙美子の文学作品を一切読んだことがない。尾道ゆかりの人物で言うなら、大林宣彦の俗に尾道三部作とよばれる映画作品も見たことがないし、志賀直哉の「暗夜行路」も名前しか聞いたことがない。
 それくらいの基礎知識もない僕でも、尾道の街は一度目に映ると衝撃的な残像となって頭に残る。海を見るとそれは島と陸を近くに隔て、山を見ると寺社仏閣と住宅が互いに並び立つ坂道の壮観。
 そんな「ノスタルジックさ」の先にある本当の街の姿ってなんだろう?と思うのだ。
 
 昨年の夏に尾道に行き、今年も行きたいとなんとかお金と時間の都合をつけて無理やり日帰り旅行を構成した。お金の都合、と書いたがさすがに在来線をうまく使って電車代は安く抑えた。
 岡山からの在来線で対面に乗ったサラリーマンの覇気のなさや、岡山の高校生の電車率、着く前に対面に乗ったしんぶん赤旗を読んでいるおっちゃんが鼻をほじっている姿にとにかく突っ込みを入れながら、近づく街の姿をとらえていく。そびえ立つクレーンは自由の女神尾道水道を目の前にたたえ山々をゆっくりと見る。電車から見ても間違いなく突き抜ける青。
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 尾道駅の有名な駅舎は、今は工事に入って見ることは出来ない。まだ朝だと言うのに、観光客がかなり歩いているし、外国人客も多い。
 商店街方向に歩くと、先の林芙美子の一文の像がある。ちなみに商店街といってもまだ本通りではないので、向かいに見えるのは山である。海側に作ればよかったのに。
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_DSC0015.JPG 本通りに入ってすぐの階段は、尾道の特徴の一つの寺社仏閣めぐりのための白い階段だ。小学生と見える子どもたちが、無邪気にそれを登っていく。
 尾道の魅力は海と山のコントラストと見る向きも多いが、電車と隣接する道路、さらに隣に山と商店街なんてのは、なかなか他では見られるものではない。
 本当は千光寺に行くためにロープウェイに乗るつもりだったが、どこから登るかを間違えてしまったために、全ての寺院を回ることになった。それはそれでよかったのだが、まさかそれが、この旅を「修行」と呼ぶ所以かつ序章になるとは思っていなかった。
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 長い坂道、路地のような細い道、すれ違う地元の方、猫が微笑む。隙間から見た「売物件」の文字には、この街の現実を感じずにはいられなかったが。
 上り終わったその先でオレンジジュースを買うが、「お寺に飲み物を入れるのもどうか」と思ってベンチに置く。雲一つない青に尾道水道と島はやはり映える。
 おん ばざら たらま きりく――大悲心陀羅尼――と唱えるといいですよと受付のおばさんはおっしゃったが、特に観光客は唱えている様子ではなかった。これでも信心深いほうなので、律儀に唱えてきた。ここの効能は厄除けらしいが、行った翌日、高校野球の応援チームがふたつも負けた。
 そういえば、千光寺山頂は恋人たちの聖地らしく、彼らもそれを自認してアピールしてくるが、ひとりの僕は「うるせえ」と視線で跳ね返す。
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 下りのロープウェイは予想以上にガラガラだったが、すれ違う上りはやはり苦を避けようという客が詰め寄せ、満席だった。
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 千光寺の麓に降り立って、商店街を通り抜ける。癖の強い店から、まさしく純喫茶という店まで様々だが、中でもテレビで取り上げられた「カレー屋でもうどん屋でもない深夜食堂風の店」は各人足を止めていた。漫画があるらしい。お酒はしっかりあるらしいので、ジャンルは居酒屋だろうか。そんなことより、「あやとりあります&あげます」が気になる。別にあやとりもらっても使わない。
 商店街を後にし、変な意味で話題のレンタサイクルを借りる。ここは、一時「TSマークが貼られていない、ずさんな管理だ」と内部告発らしきことがSNS中を駆け巡った。果たしてそれは本当だったのだろうかと、一次ソースダイレクトアタックを仕掛ける。
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 ところで、この表記で伝わると思ったんだろうか。写真は日本語と英語のバージョン比較である。特に、地図が日本語のまま。
 もうさっさとしてくれと煽るようなおっちゃん(タイプ:しんせつ)の目を受けつつも、荷台のある車種を選んで渡船に向かう。やや車高が高かったのか、股間から尻に強烈な痛み。
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 向島に向かう渡船は大阪から来た中学生くらいの子たちの団体が固まっていた。リーダー格の子だろうか、「左に詰めて」と仲間たちをうまく誘導している。
 日差しが強い向島は、しばらく走り抜けると大きなスーパーがある。これから走破するつもりなんだし、何か飲みものを買っていこうと思い自転車を止めようとしたのだが……、番号式の鍵がかからない。
 これはおかしいなと数分格闘していると、今度は地元の方だろうか、一見厳しそうなおじさま(タイプ:しんせつ)が「借り換えたほうがええやろ」と、市役所の支所を紹介してくださった。結局借り換えることなく、スーパーでは2lのスポドリを買った。
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 自転車に乗っていると、それは自己格闘の時間なのではないかと思う。島の家々が立ち並ぶ場所を走り抜けている時は思わなかったが、海岸線を横に見るカーブに差し掛かった時、まるでここは生と死の境目にあるのではないかと。
 そんな雰囲気につられてしまって、ランニングハイはふいに途切れる。エネルギー不足で向島の端を前にして走破を断念し、しかも道中スポーツドリンクを一気に飲みすぎたせいでなんとも気持ち悪くなってきた。このあと、フォロワーさんからは飲み食いしないと倒れる、糖分と塩分を確保するべし、と有益な助言を頂いた。
 頭が回らない中で、無理矢理にも何か腹の中に収めなければならぬと商店街を歩く。もう尾道ラーメンなんて、夜に回しても入る気がしない。諦めた。それならば、先程ちらりと見た純喫茶で、一日中やっているモーニング(名古屋か!)を食べてしまおう。
 「喫茶メキシコ」は、尾道本通りの中間にあって、古風な純喫茶然とした店だ。常連さんの雰囲気もいい。一番手前側のテーブルに座って、モーニングを食す。そうすると、奥の扉が開いてお客さんが入ってきた。ここは二つ入口があるらしいが、これもなかなか、らしいって感じだ。
 なんとかお目当てのものをもう一つ食べたかったので、苦しみながらも「からさわ」のアイスモナカを食した。店内には、「ゴロリ」の原ゆたか氏、フジテレビアナウンサーの西山喜久恵氏などのサインが一面に貼られている。ここは10分で溶けるアイスが売りだが、35℃の炎天下ではそう持つものではない。一気に食ってしまう。
 甘さと冷たさで一時現実を忘れたが、十分としないうちに死にかける。しゃっくりが止まらなくなったのだ。
 尾道の人々に僕は変なふうに映ったのではないだろうか。しゃっくりが止まらず、耐えきれずに建物に入って、治ったと思ったらまたしゃっくり。最後には尾道駅前のトイレに一時間もこもって、吐き気を必死に抑えながら「もういいや、帰ろう」と思ったものだ。
 二度目の旅は慢心に塗れる、と僕は思っている。岡山でも、自分の体力を一度だけで見切ってしまい、無謀な旅行をしてしまった。ひとり旅は、失敗しても成功しても責任は自分にある。そんなことを考えながら、帰りの新幹線は隣の方に心配されながら(エチケット袋を念のためにもっておいたのは、助かった)命からがら帰ってきた。
 それじゃあだめじゃんと思いながら、今度は尾道ラーメンを食うという気持ちをなお持って、去っていった。 
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飯の友

 白米のおともは漬物(浅漬け含む)、海苔、佃煮、納豆が最強だと思っている。
 とは言うものの、年がら年中それらがあるわけがないし、それどころか年に数回くらいしかこういうのは出てこない。まぁそれもそうで、ちゃんと主の料理で食っちまえという話だけど。
 ただ、主の料理の素材どころか飯の友さえないときには、うちは「とりあえず卵」で凌いでいる。
 卵は焼いて目玉焼きからスクランブルエッグ、オムライス、さらに焼かずTKG(卵かけごはん)、あとはかき玉汁とか。とにかく万能である。母の知恵万歳。
 あとは、チクワに山葵なんてのもシャレている。和やかなチクワを山葵が上品に煌びやかにしているのが、何だか山と海の融合って気がして乙なものだ。うちには基本二つともあるからだいたい常時出来てしまう。
 言っておくが、飯の友メインで食うと塩分高めで死ぬかもしれんから気をつけよう☆
 健康はバランスの良い食事からである。
 というのも、うちの父はそれが元で糖尿病になってるし、祖父は脳卒中で倒れたことがあるのであんまり笑い事にならない……。ちゃんと野菜は食べないといけない。

誰に向けて書くか、作るか

 もうだいぶ前に買ったオレンジ色の表紙に直筆の著者名が記された本を手にとって呼んだ。題名は「僕の死に方」。

 流通ジャーナリスト・金子哲雄氏はこの本で自らの経歴・栄光、そして大病との闘い、臨終と退治する覚悟を全て書きつくした。子供の頃、価格情報を調べることで母に褒められた経験から自らの使命を「お得情報を発信する人」と定めて、そしてその考えに基づいて戦略的に完全燃焼した、その全生をだ。
 さて、かつては経営者向けの雑誌での執筆を主としていた彼が、テレビにも出演するジャーナリストになるきっかけは、テレビ番組の街頭インタビューに出演するという「ちょっとした偶然だった」という。
 偶然を偶然のままにするわけはなかった。彼はすぐさまツテを辿って、久米宏も所属する「オフィス・トゥー・ワン」に所属。そこからの快進撃は言うまでもないだろう。
 が、その道のりの足がかりも、メディアの特性を理解し「先読み」を当てた部分が大きいと思う。そもそも、テレビの出演よりも先に週刊誌で記事を掲載してもらい、それが掲載されている週刊誌をテレビの喫煙室に置いたのは、テレビの取り上げるネタは週刊誌で一次評価なされたものが多いという読みが関わっている。ちなみにそれは何故かと言うと、テレビのネタは映像を撮るコストも合わせて制作費が高額で、さらに安定して視聴率を稼ぎたいので初出しネタは避けたい傾向があるのだという。
 さらに、テレビに関しては、裏番組にも出られるようにコメンテーター出演ではなくスポット出演などにしたり、週刊誌を読んで鍛え抜かれた目で「女性視点」でのコメントを心がけることで、日中での露出でライバルとの直接的な舞台の衝突をさけたり――と、徹底的にその性質を読んだ。

 

 この本の論旨とは違うかもしれないが、ここである点を呈示したい。
 ここまでの流れを逆にとらえると、テレビはそれだけ分析されるメディアになったといえる。
 分析されると、相手は対策をねって戦法を読んでくる。リオデジャネイロオリンピックレスリング決勝、吉田沙保里の対戦相手、ヘレン・マルーリスは純粋な意志をもってそれを成し遂げたし、スポーツでない極端な例を挙げるならば、その最果てはドワンゴ日本将棋協会が主催する「電王戦」で将棋の名人冠を持つ棋士が敗れたケースだろう。
 テレビはいま、そんな立場にある。
 金子哲雄の分析は個人による個人のための一人の力でしかなかった。だからこそ、テレビというメディアを使って、見てもらう人をいかなる時も目の前に置きながら、喜んでもらうための身近な経済的解説を行った。
 だが、コレがインターネットメディアになると、テレビというメディアを使わずとも、自ら一次ネタを発信できるし、ネットベースで必要に応じて取材するからテレビどころか雑誌より取材コストは若干少ないかもしれない。これはテレビの従来の弱点を見抜き、そしてそのテレビに抱かれた不満をうまく利用したといえる。

 

 テレビの例を挙げたが、これはあまり一般的な例ではないと言われるかもしれない。しかし、この例に一貫して顕出しているのは、見てもらう人を意識して、見てもらう人の感じる所を分析した結果は、個々によってその用いられ方が異なるということ。見てもらう人が意識できなければ、そこでそのメディア、そのライター、その人の文化的な意志を死んだに等しいという考え方だ。これは「自己満足」でも完結できる創作系とは一応分離される考え方でもある。
 しかしながら創作系においても他人を意識することは自らの表現をより濃く力強いものにする上で非常に重要になる。自分のために書くものから、他の作品を分析することで他人軸になっていくプロセスは多くの人が経験する道だ。
 他の作品の表現の妙あるいは弱点を見つけて自分の糧にしていくその端々で、読んでいる人をどうリアクションさせるかを考えるようになるということだろう。

 自らの軸を持ちつつ、それが消失しないギリギリのところで他を出す想像力は巷にあふれている。